聴覚障がいのため筆談で接客し、「筆談ホステス」と話題になった斉藤りえ。その半生を描いた自伝は2010年にテレビドラマ化されたことで、聴覚障がいに注目が始まった。日本各地で聴覚障がいを持つホステスが誕生するきっかけとなったそう。
だれも歩まなかった道を切り拓いてきた斉藤だが、その道のりは決して平坦ではなかった。1歳の時に病気で聴力を失ってから、口話での発声のために特訓を重ねた幼少期、「宇宙人」とからかわれた小学校時代。母との衝突を繰り返した中高時代。高校中退後は、就職しようにも障がいがあるというだけで面接を断られ続けた。
就職活動のころからずっと抱き続けていた「他の障がい者はどうやって生活しているんだろう」という問題意識は上京後、「障がいがある人もない人も一緒に働ける場所をつくりたい」という夢に変わる。娘を出産してからは、シングル家庭の子育ての課題に直面。障がいのある人もない人も共生できる社会、どんな家族も安心して暮らせる社会を作りたいと、2015年に東京都北区議会議員選挙に挑戦、トップ当選を果たした。
「政治にはまだ、当事者の声が足りていない」。斉藤が国会に議席を得れば、聴覚障がい者として戦後初の国会議員となる。「障がいによって生き方が制限されず、多様な選択が出来るよう、わたしがロールモデルになりたい」と力強く話す斉藤に、思いを聞いた。
「耳が聞こえないハンディキャップがある私」にしかできない役割がある
——自己紹介をお願いします。
斉藤りえです。1歳10カ月の時に髄膜炎という病気で聴覚を完全に失いました。20歳でホステスになり、22歳の時に上京してからは銀座で働きました。今は小学3年生の娘と2人で、仲良く都内で暮らしています。
当事者の声を政治に届ける役割を果たしたいと思い、東京都北区議会議員に挑戦、当選して4年間議員として活動してきました。シングルマザーとして、働く女性として、そして聴覚障がい者として、耳が聞こえないハンディキャップがある私にしかできない役割がある、地方政治と国政の両方がなければ進まないこともあると思い、国政に挑戦することにしました。
「宇宙人」、「神様に耳をとられた」、心ない言葉にさらされた子ども時代
——子ども時代はどんな風に過ごされていましたか?
小さい頃は、幼稚園と保育園、ろう学校幼稚部の3カ所に通わせてもらいました。両親の教育方針は、聴覚障がい者と健常者のどちらの生活も知っていた方が良いというもの。自分が周りの健常者のみんなと違う、と気づいたのは3歳くらいになって補聴器をつけた時です。
わたしの両親にとっては、耳が聞こえないことは未知の世界、試行錯誤しながらの子育てだったと思います。手話でなく口話での発声でコミュニケーションをとる教育を受けたので、家でも毎日母と鏡に向かって、口の動かし方を特訓しました。習い事もピアノやスイミングなどたくさんさせてもらったので、毎日が忙しかったです。
——3カ所に通われていると、お友達もたくさんできそうですね。小学校はどうでしたか?
小学校からは、健常者の子と同じ学校に通いました。国語と算数だけマンツーマンで指導を受けていたのですが、その先生に「君は神様に耳をとられた」と黒板に書かれたことがあります。みんながいるクラスに戻ってからも、もう一度同じ言葉を黒板に書かれて。教師という立場の人がそんなことを言っていいのか、と悔しかったし、ショックでした。教室でうつむいて泣くことしか出来なかった。
わたしは主に口話でコミュニケーションをとるので、健常者の人と発声や音量が違うことがあります。ひどいいじめはありませんでしたが、影で「宇宙人」とか言われることもあった。でも周りには面倒見のいい友だちが多くて、やめてって言ってくれました。中学に入ると兄も同じ学校にいたので、心強かったです。
面接を断られ続け…障がいを持った人たちはどうやって生活していくんだろう?と疑問だった
——中学、高校時代はどう過ごされていましたか?
中学校から徐々に授業についていけなくなり、友だちと遊ぶのが楽しくて帰宅が遅くなったりしました。両親と頻繁に衝突していましたね。なぜわたしがしたいことを邪魔しようとするのか、当時は全然理解できなくて。
高校も楽しくなくて、きちんと通っていませんでした。でもその時、すっかり元気がない様子のわたしを心配してくれて、よく行っていた洋服屋の店長が、冬休みにアルバイトをさせてくれたんです。そこで接客の楽しさに夢中になりました。出来ないことがあるのは健常者も障がい者も同じ。メモを作ってお話するとか、私なりの方法を見つけていきました。
——その後、高校を中退して就職口を探し始めます。
応募をしようにも電話しか方法がなかったので、友だちに代わりにかけてもらいました。でも、障がいがあることを話すと会う前から断られて、面接さえしてもらえなかった。話す機会さえもらえなかったら、どうやって生活していけばいいのか、とがく然としました。
——会話がメインのホステスの仕事に就くことに、ためらいはありませんでしたか?
ためらいはなかったです。ママさんの方から声をかけてもらって、とても嬉しかった。社会にはいろんな見方もあると思いましたが、プライドを持って一生懸命頑張ろう、と。まあ、若さもあったと思います(笑)
——障がいのある人で、近くに生き方のロールモデルとなるような方はいなかったんですね。
そうですね、テレビに出ているような有名な方は知っていましたが、近いところにはいなかった。アルバイト先でも、その後のホステスの職場でも、聞こえない人はわたしだけ。障がいを持った人はどうやって暮らしているのか、どうして身近に当たり前にいるはずの障がい者が見えにくくなっているのか。見えなければ健常者の人たちも障がいについて知りようがないし、知らなければ思いやることもできない。そういう問題意識はずっと持っていました。
「障がいがあってもなくても、共に働ける職場を作りたい」初めて持った将来の夢をきっかけに、政治の世界へ
——アルバイトやお仕事をされていた時期は、障がいのある人とない人が一緒に働くという環境だったんですね。
はい。小さいころから健常者と同じ学校に行ったり、職場も同じだったからか、障がいがあってもなくても活躍していけるところ、自分で経営するお店などを作っていきたいと思っていました。
東京に出てきてから、障がい者の雇用の場をつくり自立と社会参加を応援しているスワンベーカリーの社長とお話することが多くなって。こういうことを考えているのはわたしだけじゃなかった!と嬉しくて、希望が持てるようになったんです。スワンベーカリーみたいな職場を作りたい、というのが初めて持った「将来の夢」でした。
——政治の世界へ入ろうと思ったきっかけを教えてください。
26歳の時に、障がいを持つ人もそうでない人も一緒に働ける環境をつくりたいのであれば、議員になったらどうかと話をいただきました。その時は政治の世界はとても遠い存在だったので、一歩踏み込むことができなくて。子どもが生まれたばかりだったこともあって、お断りしました。
でもその後の4年間、娘と2人で暮らしていく中で、保育園問題など様々な課題に直面して。もう一度お声がけいただいた時に、政治の世界で今までの経験や当事者としての声が生かされるならばチャレンジしてみようと思いました。
障がい者が議員になることを想定されていない社会
——2015年に立候補された東京都北区議選ではトップ当選されました。地方議員としての活動はどうでしたか?
選挙活動がまず大変でした。わたしが立候補を決めたとき、区の説明会には手話通訳がなくて、最初から耳の聞こえない人が議員になることを想定されていないなあと。
議会事務局は、わたしにどう接したらいいか戸惑いがあったと思います。でも、音声をテキスト化するシステムを使ったりしながらやってこれた。議員の正面に座る議長が起立着席のタイミングを目で合図したり、隣の議員さんが教えてくれたりして、一つひとつは小さなことですが、一緒に試行錯誤しながら乗り越えてきたと思います。
——政治参加にあたって、障がい者が情報にアクセスしにくいという障壁もありますね。
はい。選挙中、聴覚障がい者は選挙カーで話していることが聞こえませんから、情報が少なくなってしまいます。候補者について、だれもが理解できる仕組みにしていかなければ、多様な人が選挙に参加することは難しい。ちゃんと理解しないまま、投票してしまってはいけないですよね。
当事者の視点にもとづいた子育て政策を
——先ほど、子育ての課題に直面したことも政治の世界へ入るきっかけの一つだったと伺いました。
娘はいま小学校3年生です。一緒に暮らしていく上で、様々な社会の障壁をわたしのそばで感じているので、助けられることも多いです。いつも頑張れって言ってくれるのが、私のモチベーションの源。娘の笑顔でもっと頑張ろうという気持ちになれます。
——斉藤さん自身の経験から、子育て支援の課題はどんなところですか?
例えば今日、娘が水ぼうそうにかかり学校を1週間休むのですが、看病しようにも仕事は休めない。病気は急なことなので、シッターさんを見つけるのに一苦労でした。いつも3人ほどお願いができるようにしているのですが、どの人もすでに別件が入ってしまっていると、紹介などしてもらわないといけません。
保育園を出てからも、親がどんな働き方をしていても、シングル家庭が安心して働ける仕組みをつくるために、親御さんたちと一緒に考えていきたいと思っています。
コミュニケーションの方法にも、多様性を
——立憲民主党の理念の中でパリテやボトムアップなどの理念で、特に斉藤さんがひかれるものは何ですか?
先の統一地方選でも多くの障がいをもった候補者を擁立していますし、「立憲民主党はあなたです」というフレーズの「あなた」に障がいを持った人が入っていることを感じます。当事者の政治家を作ろうという姿勢そのものが理解のある行動なんじゃないかなと。
それから政策面でも、党の基本政策の中に多様な個性や価値観を認め合うことが書かれていますし、手話言語法の制定についても明記しているところですね。
——手話言語法についての考えを聞かせてください。
手話言語法は基本理念として手話を習得する者への支援や、手話が独自の体系を有する独自の文化の継承と発展が明記されると聞いています。聴覚障がい者のコミュニケーション方法として、健常者の人もイメージしやすい「手話」を通じて、障がいについて考える機会になることを期待しています。
ただ、聴覚障がい者みんなが手話が出来るわけではないです。わたし自身も手話でなく口話と筆談でコミュニケーションをとってきました。手話を学んだのは大人になってからです。多様な聴覚障がい者を理解してもらうことも欠かせないと思っています。
義務教育や社会の中で、その人に合った言語を選択し決定できる、情報・コミュニケーション法案とセットとして考えることが重要だと思います。
教育を通して、多様性のある豊かな共生社会をつくっていきたい
——斉藤さんには学校現場での辛い体験や、様々な学校を見てきた経験があります。教育についての考えをきかせてください。
そうですね、障がい者福祉、女性の社会進出、ひとり親支援と並んで、教育はわたしが重視する政策の一つです。教育はすべての分野に通じますし、特に多様性の実現、人権の問題の理解には教育こそが有効な手段です。教育を通して、豊かな社会を作り上げることができると思っています。
ただ、実際の教育現場にはなかなか余裕がないのが実情です。教員の働き方改革や職場環境を整えつつ、主体的、対話的で深い学びを促す必要があると考えています。
——斉藤さんが考える豊かな社会とは?
共生する社会、ですね。多様な存在を実感し、異なる価値観や個性を尊重し、そして多様な考えを持つ人たちの対話によって社会が成熟していく。豊かな社会、とはそういうことなのではないかと思います。
女性として、働く母親として、障がい当事者として
——目指す政治家像を聞かせてください。
わたしは聴覚障がいの当事者として、当事者性を大事に感じて国政に挑戦します。障がい者や支援を欲している母親自身が抱える課題を自分で議会に届ける余裕はないですから、当事者議員がいることはとても大切。現実に即した制度設計について訴えていきたいと思っています。
そして、生まれた時から選択が制限されるのではなく多様な選択ができる、障がいのある子どもたちにとってのロールモデルの一人として、努力していきたいと思います。
ひとり親でも障がいを持っていても、平等に暮らしやすく働きやすい社会をつくりたい。これまで地域の議員として活動しながら、各地の議員とバリアフリー設備や、言語としての手話、手話通訳士についての情報交換や視察をしてきました。その経験を国政の場で生かしたいと考えています。
斉藤りえ RIE SAITOH
1984年、青森県青森市生まれ。一児の母。1歳の時に病気により聴力を失う。東奥学園高等学校中退。
銀座のクラブ勤務時に、筆談を生かした接客で「筆談ホステス」として話題になる。半生を描いた初の著書「筆談ホステス」(光文社)が2010年にドラマ化され、各地に同じく聴覚障がいを持つホステスが誕生するきっかけともなった。2009年には青森市の観光大使に就任。
2015年、「人の心が聴こえる街に」をキャッチフレーズに東京都北区議会議員選挙に出馬し、トップ当選。
その他の著書には「母になる」(光文社)、「ありのままに。 筆談議員ママ奮闘記」(角川書店)などがある。趣味は読書と、娘との散歩。