2018年、イギリスでは「孤独問題担当大臣」のポストが新設された。英政府は「孤独」で年間320億ポンド(約4.9兆円)の損失があるとし、健康を損なうことにもつながるとして、コミュニティ活動に対して金銭的な助成を行っている。日本でも、65歳以上の独身男性は2週間会話のない人が16.7%というデータがあるなど、孤独、孤立は深刻な社会問題だ。

いちき伴子(ともこ)は、NGO活動や東京都杉並区議会議員としての活動を通して、様々な孤独、孤立の問題に長年取り組んできた。大学在学中のNGO活動では、路上生活者への「夜回り」活動に参加したことをきっかけに、政治に興味を持った。2011年に東京都杉並区議会議員になってからは、児童養護施設の拡充や子育て政策、自殺対策といった、孤立した人々を支える制度づくりに奔走してきた。

「多様な人がつながり、支え合う社会」を目指すいちきは、「既存の法律に基づくセーフティネットはまだ、現代の課題に対応しきれていない」という。そんな彼女がこの春、国政に挑戦しようと山梨県で政治活動を開始。全国各地で「支え合い」「孤立」を見てきた彼女のこれまでと、今後の展望について聞いた。

「支え合い」を追求してきた活動の原点は「教会」

——自己紹介をお願いします。

いちき伴子です。大学卒業後に市民運動や国会議員秘書などを経て、2011年からは東京都杉並区議会議員を8年ほど務めました。貧困や自殺対策、子育て支援、児童養護施設の拡充に力を入れてきました。

——ご実家が教会だったそうですね。

はい、いろいろな困難を抱えた大人たちが、お互いに支え合うのが当たり前の環境で育ちました。宮崎県の自然豊かな町で、教会と幼稚園を運営していたんです。父が牧師、母が幼稚園の園長でした。

戦争で夫を亡くした単身のおばあちゃん達が、数人で集まって日なたでおしゃべりしたり、自分で作った野菜を交換し合ったり。一時期は、礼拝堂で寝起きしてるホームレスのおじさんもいました。教会にやって来るいろんな人たちが、両親と一緒にわたしを育ててくれて。高校を卒業する18歳まで、食事を一緒にとるのも当たり前でした。実家の環境は、わたしが目指す「多様な人がつながり、支え合う」社会の原風景になっていると思います。

——いちきさんはどんなお子さんだったんですか?

田舎にはよくあることですが、そもそも家に鍵がかかってなかったし(笑)、自然に囲まれてのびのび育ちました。農作業をしていた母方の祖母に、飼育しているニワトリの締め方を教えてもらったり。その祖母は第二次世界大戦後、当時の満州から女手ひとつで子どもを数人抱えて引き揚げてきた、苦労人で。寡黙な人だったのですが、ある日ぽつりと「戦争だけはしたらいかんよ」と。数ある経験の中から選んで私に伝えてくれたんだな、と重みを感じました。安全保障や外交問題を考える時の、私の指針になっています。

インド、ロシア…。バックパッカーとして各地で目の当たりにした格差と差別

——大学生のころは、バックパック旅行をしていたんですね。

はい、インドでの経験がその後に貧困や孤立問題に関わるきっかけになりました。ある日小さな女の子がねだってきたおやつをあげたら、それを道端のバラック小屋に住む家族と4等分して食べていました。世界の経済格差は頭では理解していたつもりでしたが、自分が現地の人とのコミュニケーションに巻き込まれてみて初めて、本当は何もわかってなかったんだ、と恥ずかしい気持ちになったんです。

バックパッカーの憧れの地、チベット高原西部にある未踏峰のカイラス山(標高6,656m)をトレッキングした。「チベット文化が大好きになって、3カ月くらいいました。外国人の退去命令が出た時は、髪を剃って尼さんに紛れ込みました(笑)」

——インド以外で印象に残っている旅行先はどこですか?

ロシアですね。当時はアジア人への人種差別があって、道を歩いていたらわざとぶつかられたり。言葉では理解していたつもりだった、差別の理不尽さを肌で感じました。女性1人ではホテルにも受け入れてもらえず、困ったのでベトナム人の学生に声をかけて大学の寮に1週間ほど泊めてもらいました。このころの経験が、初対面の人たちの中に飛び込んでいって、お話ししたり交流することの多い政治家の仕事に役立っているかもしれません。

帰国後の路上生活者支援きっかけに「もっと政治で出来ることがあるんじゃない?」

——大学院卒業後に国会議員秘書になったとのことですが、政治に関心を持つきっかけになった出来事を教えてください。

バックパック旅行から帰国後、貧困問題解決の助けになりたいと参加していた、路上生活者の方に対する「夜回り」がきっかけです。おにぎりやカイロを渡したり、困っていることがないか声をかけたりする中で、自立支援につなげる活動です。実家のように、孤立しがちな人をつなげることがNGOという形でできるんだ、とわたしの視野を広げてくれました。

——2008年の「年越し派遣村」などで路上生活者への支援が注目される以前ですね。

そうです。「路上生活するなんて自己責任」という社会認識が主流でした。路上生活者が多い地区では、真冬に吹きすさぶ寒風の中で凍死する方もいる、過酷な現実がある。ほぼ手弁当の活動では、路上生活を抜け出したい全ての人に支援はできませんでした。政治が支援の枠組みを作ったりすれば、より効果的に支援ができるのに…と疑問に思いました。

そんな時、八百屋から国会議員になった女性政治家が市民活動に関心を示してくれていて、接点ができました。秘書を探していたので、政治の可能性を確かめてみよう、と飛び込んだんです。

——政治の仕事はイメージと違いましたか?

そうですね。仕事はとにかく地域密着。秘書の仕事のほとんどが、外国人の方たちや沖縄県人会の人たちをはじめ、地元・尼崎の人たちの話を聞きに行くことでした。もうちょっとオフィスワークした方が良くない?と思ったくらい(笑) 政治というものが、こうやって地道に人の話を聞いてそのニーズを実現していくものなら、わたしが持つ実家の原風景のような、支え合いの社会を作っていけるんじゃないか、と思って政治の道に入ることを決めました。

現代の日本社会が抱える課題の本質は「孤立」

——杉並区議会議員として活動して見えてきた課題にはどんなものがありましたか?

たとえば児童養護施設は、今でも現場は精力的に子どもたちを支えていますし、わたしも杉並区で充実に取り組んできました。そんな中で、今年2月に東京都渋谷区の児童養護施設「若草寮」で、元入所者の青年による施設長の殺傷事件が起きてしまった。

虐待などで親を頼れない子どもに対する責任が、今は福祉現場に集中する傾向があります。だから虐待を受けた子どもが、実の親ではない人に後見人になってもらえる制度の拡充が必要です。今も後見人制度はあるのですが、虐待をした親に対する親権停止の時の申し立ての時だけなど、限られた場面での活用にとどまっているんです。4月に山梨県甲府市で行った記者会見の様子

——今や共働き家庭が全世帯の8割を占めます。この変化に社会の制度が追い付き切れていないために、保育園に子どもを預けたい子育て世代が「孤立」してしまうこともありますね。

そうですね。わたしが忘れられないのは、旦那さんが非正規で働いていたご家庭からの、保育所入所の相談です。認可保育園への入所に必要な勤務時間最低基準にぎりぎり達するくらいのご夫婦がいました。勤務時間証明をとるのに大変苦労されて、わたしも協力してなんとか申請にこぎつけました。非正規で働く親が認可保育所に申請すらできないのは、やはりおかしいです。

——「孤立」の行きつく先として、自殺対策にも力を入れてこられました。

政治の道に入った間接的なきっかけとして、子どものころに同居していた叔父の自死があります。当時は小さかったので、なぜそうなったのか分かりませんでしたが、「家族以外には言ってはいけないこと」という雰囲気を強く感じたのを覚えています。

でも、自殺はまぎれもない社会問題です。自殺者数は2003年のピークだった年間3万4000人からは減りましたが、今も毎年2万人以上です。1時間に2人以上の方が、国内で自死していることになります。その理由は様々ですが、経済的困窮や社会からの偏見による精神的な苦痛など様々で、社会的な孤立もその一つです。

特に近年は女性の就業率が上がっている一方で、平均賃金は男性の7割程度と少ない。経済的に追い込まれやすい上に、様々なハラスメントにもさらされる。これまでは自殺率の高い中高年男性に焦点を当てた自殺対策がされてきましたが、女性の自死増加を防ぐためにも、女性の孤立に特化した調査や対策が必要です。

いま、国政にチャレンジする理由

——杉並区議として8年間お仕事をされてきて、今、国政にチャレンジする理由は何ですか?

子育てや児童養護施設、自殺対策など、関わってきた分野すべてで、「孤立」を解決するためには国の制度から変えないといけない、と思うことが多々ありました。そして学生時代からの経験上、「孤立」してしまう人たちへの有効な支援には、市民運動だけでは足りず、行政が示す理念や、実際の支援が必要です。現場の視点を持ちつつ、スピード感を持って物事を進めていくには、国会議員でなきゃいけない。

——山梨で政治活動をするポテンシャルをどんなところに感じていますか?

わたし自身、山梨が大好きでした。実は2012年から毎年、福島県から親子20組ほどを山梨県忍野村に招いて保養キャンプを開く活動に関わってきました。東日本大震災以降、外遊びの時間が制限されている子どもたちに思いっきり遊んでもらうことが目的の活動です。その時に、村長さんは温かく迎えてくださいました。他所から来たわたしたちを盆踊りに参加させてくれたり、差し入れの食べ物を持ってきてくれたりと、山梨の暮らしやすさ、懐の広さを感じました。

山梨には「子育て支援」という言葉が一般的ではなかった30年ほど前に始まった、子育て支援のNPOがあります。今では行政や企業と連携しながら、県全域を活動エリアに100もの拠点があるんです。こういった先進的な取り組みが根付く地域でなら、区議の時には実現できなかったことに挑戦できるはず、と大きな可能性を感じています。

——実際に山梨で政治活動を始めて、いちきさんが注目している事例はありますか?

先日、韮崎(にらさき)市の青少年育成プラザを訪ねました。中高生に学校でも家でもない居場所を提供し、満足度を高めて人口減少に歯止めをかけようという取り組みです。

登録すれば中高生ならだれでも使える拠点で、勉強してもおしゃべりしても良いフリースペースや、様々な仕事を紹介するブースが整っています。市から委託を受けたNPO法人のスタッフは全員平成生まれの20代で、親や教師以外の大人と気軽に話せる。韮崎出身者やU・Jターン、移住者が韮崎を紹介するウェブサイトも運営していて、地元を離れても接点を持ち続けられる仕組みを作っています。

施設長から話を聞いた

山梨の中にも様々価値観、ライフスタイルがあります。若者に定着してもらうためには、とにかく雇用を創出すれば良いという発想では不十分です。若者がそれぞれの将来像を思い描けるような山梨を、若者自身が創造していくための仕組みづくりが必要です。韮崎市のような地域の自主的な取り組みを国がサポートしていくことが、多様な地方の発展につながるのではないでしょうか。

——山梨の自然環境が持つポテンシャルは何でしょう?

山梨県の豊かな自然環境は、これからの経済に活かすべき重要な資源だと思います。山岳地が県面積の8割を占め、水質にも恵まれ、それでいて首都圏にも近い。そのおかげで、現在も医療機器や工業用ロボットなど精密機械の製造業が盛んです。

豊かな自然やおいしい食べ物は、国内外から人をひきつけるポテンシャルです。富士山の世界遺産登録も観光客を呼び込む追い風になります。またNPOによる移住希望地ランキングでは、山梨県は移住先としてここ数年、全国トップ5に必ず入っていて、実際に移住者の数も増えている。移住支援も伸ばしていくべき分野です。

——一方で課題は何でしょうか?

離農や人口減少といった課題も見えています。「果樹王国やまなし」を支える農業や林業の所得の底上げ、個人事業主や中小企業の事業承継のバックアップなどを通して、若い担い手が山梨に定着できるようにする必要があります。

また山梨は車社会です、高齢になって免許を返納したくても車がなければ生活できない現実があります。高齢者を支える公共交通の拡充が喫緊の課題です。課題は課題としてしっかりと見据えたうえで、観光振興や移住支援、予防医療を充実させて、山梨の良さをさらに引き出していければと思っています。

——最後に、どんな政治を目指していきたいですか?

「あなたを、ひとりにしない」がキーワードです。秘書や議員として、いろいろな「孤立」をみてきました。収入の多い少ないに関係なく、人は誰もが何かのきっかけで「孤立」に陥ることがあります。そうなった時に公的機関が助けてくれる、という安心の必要性は、誰にとっても他人事ではないはずです。

現代社会は「老後に2000万円」問題であらわになったように、老後資金、子育て、介護など、将来への不安要素を挙げればきりがありません。そしてその不安が、消費を停滞させてもいる。セーフティーネットを拡充し、一人ひとりの安心を社会の安定につなげていきたいです。

いちき伴子 TOMOKO ICHIKI

1977年、宮崎県延岡市土々呂町生まれ。関西学院大学、同大学院卒。研究分野は中世ドイツ思想と東洋哲学。2000年3月から1年かけてインド、中国(西安、チベット)、ネパール、タイ、香港、ロシア、欧州、パキスタンなど20カ国を1人でバックパック旅行した。
大学院卒業後、国会議員秘書やデザイン会社経営、NGOなどで幅広く活動。
2011年、東京都杉並区議会議員に初当選し、2019年4月まで務める。
2014年からは「立憲主義の回復」「安保法制の廃止」などを掲げる自治体議員立憲ネットワークに参加し、事務局長を務める。
趣味は映画、旅、観劇、漫画など。好きな映画監督はティム・バートン。猫や犬など無類の動物好き。