公文書改ざんに隠蔽、統計不正など、民主主義の根幹を揺るがすような事態が立て続けに起きたこの2年。不正を指摘された現政権は質問にまっすぐに答えず、政治の不透明性が高まり、人々の生活から遊離してしまっている。
朝日新聞で15年間、市井の声から首相官邸までを取材してきた山岸一生(いっせい)は、現政権が密室で決める政策は「社会的な立場の弱い人たちを切り捨ててきた。どんどん自分たちの生活の実態から離れていってしまう」と危機感を募らせる。同世代の「分断」を感じてきた、ロスジェネの当事者でもある。
いくら政権と近くなろうとも、きちんと距離をとって、批判すべきは批判する。そんな誇りを持って、記者の仕事を続けてきた。「でも、メディアまでもが政権によって分断され、政権監視の機能が果たしにくくなっている」。だからこの夏、「政治の決定プロセスそのものを問い直したい」と国政に挑戦することを決めた。「記者の仕事が大好き」と話す山岸が、メディアを飛び出した覚悟を語ってくれた。
与野党番を経験した生粋の「政治記者」
——自己紹介をお願いします。
山岸一生です。朝日新聞の記者として各地で取材をしてきました。15年間のキャリアの中で、政治部の経験が長く、2014年の沖縄県知事選での故・翁長雄志氏の取材や、旧民主党の菅直人首相、野党自民党の谷垣禎一総裁の番記者をしてきました。2015年からは首相官邸や自民党本部を取材し、18年からは野党担当でした。永田町内部の権力闘争、言葉の力で人々をまとめていく故・翁長氏の選挙戦など、政治の様々な姿を見てきました。
——子どものころから新聞記者志望だったのでしょうか?
いえ、国語が苦手だったので、自分が記者になろうとは思いもしませんでした。登場人物の気持ちを選ぶ問題で、ああも言える、こうも言える、と考えこんで決められない子でしたね(笑) 父はNHKのテレビマンで、「おしん」の撮影現場を仕切っていたそうですが、仕事が忙しくて連日深夜に帰宅していたので、特に父からメディアの現場の話を聞いたこともなかったです。子ども時代に関しては、専業主婦の母の記憶しかないくらいです。
ただ、中学、高校生活は、「人の話を聞き、一緒に考える」をモットーにしている今のわたしを形作ってくれたと思います。今では珍しい、特定の強い政治信条を持つ先生もいて、でもそれを絶対視するのではなく、みんなで議論する自由な土壌がありました。
たとえば、戦中生まれのある先生が定年退官する時、全校生徒の前でした挨拶が「諸君、わたしは君たちに2つだけ言いたいことがある。一つ、グローバル企業を監視せよ。二つ、日本国憲法を死守せよ。さらば」だった。
「すごい先生がいたもんだ」と思いながら教室に戻ると、若い担任の先生が「俺はあんなの間違ってると思う」と大反対。そこからみんなでわーわーと議論する、という感じでした。
広い社会の中の「ちっぽけな自分」を感じた大学でのフィールドワーク
——記者になろうと思ったきっかけは何でしたか?
大学1、2年のころ、人権問題の現場に自分たちでアポ取りをしてフィールドワークに行って、内容を発表するゼミにいました。ハンセン病療養所や少年院、フィリピンのスラム街などいろいろな所を訪問させていただきました。
ハンセン病療養所という施設、そして周囲から隔離された暮らしがあったことを、当時のわたしは知らなかった。少年院もそうです。「人権問題」と言われるところそれぞれに、人々の日常がある。
世界が表裏ひっくり返ったような気持ちでした。それまでは、進学校から東京大学という閉じた世界に自分がいて、その外側に実世界があるという感覚。でもゼミでいろんな所に行く中で、広い社会があって、その中にちっぽけな自分がいるんだという認識になったんです。これまで知っていたことは本当に少なくて、知らないことが99.999%だったんだ、と。
このまま東大を出て官僚になったら、それはすごく狭い世界の中だけを進んでいくことになるんじゃないか、それって社会に根差した仕事ができるのか、って不安に思えてきたんです。それならば、知らないことを丁寧に人に聞いて事実を集め、そして伝えることのプロになろうと、報道の仕事を選びました。
「殺されてもいいと思ってるよ」故翁長沖縄県知事の言葉の力強さ、政治の希望を感じた取材
——記者生活の中で、印象的だった出会いを教えてください。
前沖縄県知事選の故・翁長雄志さんです。翁長さんはもともと自民党で、保守の政治家でした。日米安保にも賛成という立場です。そんな翁長さんですが、県民の反対を押し切って辺野古に新しい基地を造ろうとする動きをから真っ向から批判し、2014年の県知事選では保守系、民主、社民、共産などを一つにまとめていきました。
「腹八分のところでまとまろう、腹六分でもいい」という言葉は忘れられません。外から押し付けられた争点のために、地域が分断されるようなことはあってはならない。その信念を強い言葉に変えて、人々を動かす力を持った人でした。保革対立を超えた「オール沖縄」は、単なるスローガンじゃありません。実直に一つひとつの言葉を積み上げていった結果なんですよ。取材していても、昨日まで敵だった人が、次の日には「やっぱり翁長だな」と言って味方になっているという場面に何度も出くわしました。
翁長さんという政治家と出会ったことで、言葉で人と人をつなぎ、一つの方向性を示していくことの可能性を感じることができました。
愛想笑いをやめた記者。上から降りてくる政策に誰も文句を言えない政治、マスメディアの分断を、もう黙って見過ごさない。
——充実した記者生活の中で、なぜ政治の道を目指すことになったんでしょう?
国民が声を上げても耳を貸さない政治、メディアの分断への危機感です。沖縄で政治の可能性を感じて、2015年に「さあ政治部だ、頑張るぞ」と意気込んで東京に戻りました。そうしたら、当時は安保法制が取りざたされていた時期。国会前デモや強行採決も目の当たりにしました。国会での数の力を楯にして、官邸の密室で政策が決まっていく。政治記者として目の前にいるのに、遠いところで決められている危機感、無力感がありました。
——どんな場面でそういったことを感じましたか?
たとえば2016年の伊勢志摩サミットでのG7会合で、安倍首相が4枚紙を各国首脳に配って、「世界経済はリーマンショック級のリスク」と言いました。でも当時、日本も他国も世界経済のある程度共通した見方は「緩やかに回復」。わたしは官邸担当でしたからその場にいたんですが、他国の首脳たちの戸惑った表情が取材で見えてきました。要は国際会議の場を利用して経済停滞を打ち出して、その勢いで消費増税延期だ、という流れ。その4枚紙は一部のスタッフが急遽作ったものでした。
政策って本来は現場や党内でもんで、方向性が見えてくるものですよね。でも現政権はその逆。すごく大事な国の方針が官邸の一部でパパっと決められてしまう。
——メディアで政治の危機を訴え続けることは難しかったのでしょうか?
メディアには本来、どんな政権とであれ距離を保ち、その活動を監視するという民主主義に不可欠な使命があるはずです。メディアと世論の監視を受けない政治は暴走します。そのメディアの大事な役割が、現政権では果たせなくなっている。現政権には、こっちには情報を流し、あちらには不利にする、という意図的なコントロールが見られます。しかも公文書を改ざんしたり隠蔽したりする。
そうするとメディアどうしが、あいつはおかしい、いやこっちがおかしい、と対立してしまう。たとえば森友学園、加計学園の問題では朝日新聞が頑張りましたけど、それすらも「あれば朝日が騒いでるだけだから」と矮小化、相対化されてしまった。メディアが分断されれば、政権はその陰で「批判されなくて、ああ良かった」って安心していられる。
——そんな中での取材は、山岸さん自身にとってどんな経験でしたか?
今だから言えますが、2015年からの官邸、自民党本部の番記者時代、愛想笑いがうまい記者でした。朝日新聞と現政権との関係が難しい中で、珍しく、ある政権幹部に食い込んだと言われていたんです。
ある時、ちょっと相手が困る質問を与党議員にしたら、「今度、お前の会社の役員と飲むからな」と言われて。気付いたら「ありがとうございます、よろしくお願いしますよ~」って必死に愛想笑いしていたんです。
その時、人生の中で一番情けない顔をしていたと思います。僕は今まであまり怒ったことがなくて、小さい頃は「にこにこ坊や」と呼ばれていたくらい。でも初めて、そんな自分が許せないと思いました。
仕事を続けたいから、学校や家庭で波風立てずにいたいから、なんとなく愛想笑いで済ませてしまっている、でも本当は嫌だ、という思いは、たくさんの人が持っているはず。僕が「愛想笑いをやめたい」と訴えることで、いろんな人が自分の身近で「空気を変える」きっかけになればいいなと思います。
生活の声を聞くことと、ビジョンを示すこと。「両輪を回し始めているのが、立憲民主党」
——国政で主に取り組みたいことは何ですか?
いま一番政治が問い直すべきは、政策を作り上げるプロセスそのものだと考えています。これだけ日本の人口が減り、新興国の経済が成長する中で、経済や社会保障に関しては、国民全員に利益があって100%納得してもらえる答えはなかなかないと思う。だから負担も含め、政策への納得性を高めるためにも、生活の声を聞くことが必須です。当たり前のことなんですが、現政権はそれをおろそかにしている。
強いビジョンを示すことと、それを作るためのインプット、つまり人の話を聞くことの両輪を回す仕組みを作ろうとしているのが立憲民主党なんじゃないかな。現場から声が出るのを待つ、「私たちは話を聞きます」というだけじゃなくて、ビジョンを持って、こちらから話を聞きに行く。パートナーズ集会とかタウンミーティングを開き、一緒に政治を考える。日本の政党の中で初めて、そのサイクルが回りつつあると思っています。
——具体的にどんなことに取り組んでいきたいですか?
現政権では公文書改ざんや隠蔽が横行し、そのたびに政治に対する国民の信頼を失ってきました。国民が政治について考えるために必要な情報やデータを厳しく管理し、情報公開を徹底するため、公文書管理法と情報公開法を強化していきたいです。国会の行政監視機能を高めるための、行政監視院法案にも取り組みたい。
分断されやすい「ロスジェネ」。世代の課題は日本全体の課題
——朝日新聞が「ロストジェネレーション」という用語で問題提起してから、12年が経ちました。これまでの政治では非正規雇用の多いこの世代の課題解決に本腰を入れてきませんでしたが、山岸さんは世代の当事者としてどう見ていますか?
わたしは2004年に社会に出た、就職氷河期の末期でした。2つ上の姉が最もしんどい時期でした。留学してスキルアップを図ってもなかなかキャリアアップに直結しない。真面目に努力してもなかなか評価されない時代でした。
僕のように大手メディアの正社員になれても、人が減る中で重労働。でも「お前はいいよな」と言われる。私たちロスジェネというのは、友達、家族どうしでもそういう「分断」をリアルに感じる、バラバラになりやすい世代だと思います。
でも、それを「仕方ない」で終わらせるわけにはいきません。この分断は、世代の一人ひとりが悪いわけではなくて、社会が生み出した問題です。多くの人が共通に抱える問題で、その声を集めていけば、必ず是正できる問題のはずです。
——どんなことを訴えていきますか?
ロスジェネの問題は、ロスジェネだけの問題ではありません。高齢化の中で、この世代にとって働きやすく、希望すれば子どもを産み育てられるような社会にしないと、社会保障制度だって維持できない。希望する非正規雇用の方たちを正規雇用化することはもちろん、人手不足なのに低賃金な保育、介護労働の賃金を引き上げ、子どもを育てるに十分な収入を得られるようにする。無償化の前に待機児童を解消することも重要です。
フルタイムで働けなくなる可能性は、いつだってある
——先ほど、官邸主導型の政治では暮らしから離れた政策になってしまう、という話がありましたが、山岸さんが大切にしたい暮らしの声、というのはどんなものですか?
実は先日、72歳の母が心筋梗塞で倒れたんです。手術をして一命をとりとめたんですけれど。僕はこれまで健康体でいられたので、フルタイムで働いてきましたが、いつ急な病気や事故で、今まで通りに仕事が出来なくなるか分からない。その可能性は日常に転がっているんだな、と改めて強く感じました。
健康体でフルタイムで働けるって、本当はすごく稀なことなんじゃないか。自身が病気や障がいを抱えることだってあるし、子育てや介護、介助といったケアワークで働ける時間が限られることだってある。誰にとっても生きやすい社会をつくるというのは、今フルタイムで猛烈に働いているサラリーマンにとっても、他人事ではないはずです。
高齢者、病気や障がいを持っている、育児や介護といったケアを抱えて、フルタイムでは働けないといった状況が真剣に考慮されていない。誰もが安心して暮らせる社会を作るためには、そういった様々な状況に置かれた人たちの声を集めて、手間ひまかけてきめの細かい法制度を一緒に設計していくしかないと思います。立憲民主党でなら、きっとそれも可能だと思っています。
——最後に、どんな政治家を目指したいですか?
記者の心得として「現場百遍」という言葉があります。現場にこそ解決への糸口が隠されているのであり、100回訪ねてでも慎重に調べるべき、という意味です。何回でも現場に行って、人に会う。刑事ドラマと似ていますけれど、何度も通うことで何か前と違うなとか、変化に気づけるんです。そして、それは事実なのか?と確認作業を積み上げて、ファクトを示す。人に会って話を聞き、一緒に考えるという点では、記者と議員の仕事は基本的に同じですから、これまで培ってきたことを生かしていきたいです。
山岸一生 ISSEI YAMAGISHI
1981年、神奈川県川崎市生まれ。国立筑波大学附属駒場中学、高等学校卒。東京大学法学部卒業後、朝日新聞社入社。
高知、京都の地方総局や東京編集センターを経て、2010年から政治部で旧民主党の菅直人総理、野党自民党の谷垣禎一総裁の番記者を務める。2013年から15年には沖縄県那覇総局で辺野古問題、沖縄県知事選などを取材。15年に政治部に戻り、首相官邸や自民党本部などを取材。18年から野党担当。
趣味はサイクリング、サウナ、山歩き。東京都三鷹市在住。家族は同い年の妻と母親。