質問を投げかけると、宙を見上げながら、ゆっくりと言葉を選んで話す。去年まで社会福祉士として働いていた森沢美和子は、2月11日告示・18日投開票の東京日野の市議会議員選挙に立憲民主党から立候補する。政治家としてインタビューを受けること自体、まだとても緊張すると語るが、社会福祉士時代に読みこんだ本を手に取ると、堰を切ったように言葉が出てくる。自分を「現場人間」と表現する彼女のストーリーを聞いた。
*このインタビュー記事は、過去に掲載したものを再編集しアップしています。
「自分自身が抱えていた子育てと仕事の両立の悩みというのはきっと、誰もが抱える困難さなんじゃないかなって考えたんです。」
──まずは自己紹介をお願いします。
森沢美和子と申します。日野市、多摩平生まれの51歳です。去年まで社会福祉士、精神保健福祉士として福祉の現場で働いていて、今回、生まれ育った日野市で市議会議員選挙があるということで、立憲民主党から立候補することを決意した…ばかりです。
──福祉の現場では具体的にはどんなお仕事をされていたんですか?
元々はファミリー・サポート・センター、子育て相談のNPOです。そこで働きながら社会福祉士と精神保健福祉士の資格を取って、次は精神障がい者の方々や子育て支援を行い、その後、地方自治体で嘱託職員として、今度は行政の立場から関わっていました。そうした支援の現場で感じたことは、今回の立候補の大きな動機になってます。
──プロフィールによると、福祉の現場で活躍される前はアパレル店で店長として働かれていたそうです。当時は仕事と子育ての両立に悩まれていたと聞きました。
うん…そうですね、わたしの世代の働く女性って、多かれ少なかれみんなそうだと思うんですが、悩んでました。わたしが復帰を前提に育児休暇を取得したのも、当時の会社の中では珍しかったので。1年の育児休暇を取って、復帰してしばらくして店長職をやることになって。保育園も決まったんですけれど、店長となるとやっぱり閉店が21時とか22時とか。それでもわたしは恵まれてる方で、夫や自分の両親のサポートもありつつ、上司や同僚の理解のうえで、早く帰れる時は自分でも保育園にお迎えに行って、という。だけど、「やっぱり店の責任者なのに早く帰るのはどうなの?」っていう意見も中にはあったりして。自分でもすごく悩んで、同僚や上司に相談していたんですけど、ある日メールで「辞めます」って、思わず送ってました。それで店舗閉鎖とともに退職しました。
──アパレル会社を退職後、大学院に入学して社会福祉士を目指されたきっかけというのは?
自分の中でいったんリセットしたんですよ、すべてを。子どもができても仕事を続けていきたいっていうのははっきりしていたんですけれど。これまでの自分にとらわれずに、「わたしに一体なにができるんだろう?」って考えた時に、自分自身が抱えていた子育てと仕事の両立の悩みというのはきっと、誰もが抱える困難さなんじゃないかなって考えたんです。子育て支援というか、子どもに関わりたいって思って。そんな中で「社会福祉士」という言葉と出会いました。
福祉の現場に飛びこみ、働きながらの資格取得
──アパレルから福祉の現場というのは、業種としてはかなり思い切った変化ということになります。友人関係などで福祉関係のお仕事をやってらっしゃる方が周囲にいたんですか?
いや、友人にはいなかったです。だから最初は自分で調べて、調べて、調べて(笑)。それで、アパレル時代のお客さんにちょうど社会福祉士の人がいらっしゃったのを思い出して。それからはその方に色々聞いたり。でも、わたしは、福祉の仕事もアパレルでの接客も、結局は人と関わる仕事なので、基本は変わらないっていう思いもありました。じつはわたし、アパレル時代は子ども服の担当だったんですけれど、素敵なコーディネートで提案して、写真を撮るじゃないですか? そうするとそれがその子の思い出として一生残るんですよね。だからすごく喜んでもらえた時は、やっぱり「その家族の心に残る仕事ができた!」って自分で思っていたので。「全然違うじゃん」って思う人もいるかもしれないけれど、人の笑顔とか、幸せにつながる仕事っていう意味では、自分の中では同じだって感じる部分も大きいです。
──とはいえ、資格試験の勉強は大変ではなかったですか?
勉強それ自体が大変というよりは、わたし自身も子育て真っ最中だったこともあって、大学院修了後の試験には受からなかったんです。卒業後、民間のNPOで働き始めました。ファミリー・サポート・センターのアドバイザーだったり、主に子育て支援事業を行いました。仕事も子育ても忙しいし、しばらく資格は無理かなあ、なんて思っていた時期もあったんですけど、実は娘が中学受験をする時に一念発起して。
──それはお子さんの姿を見ていて、自分もモチベーションが?
はい。娘の受験する様子を見ていて刺激されて(笑)。娘とはもちろん言葉でも色々と話すんですけど、わたしはどちらかというと「自分の背中を見せて育てたいな」という気持ちがあって。それで、娘を見守りながら試験勉強を応援するよりも、わたしもわたしにとって大事な何かを頑張ったほうがいいって思ったんです。そのほうが自分らしいやり方だな、と。
福祉の現場で実感したこと
──福祉の現場で働かれて、強く実感したことはありますか?
やっぱり人が見えてないといけないな、というのは実感しました。それは自戒もこめて。子育て支援でも、一番大事なのは相談にくる、困っている市民じゃないですか? でも支援事業を展開していく過程で、うまく全体を回すことだけに意識がいってしまうと、どうしても支援の現場の感覚とズレてくると思うんです。だから、自分が誰のために、何のために仕事をしているのか、つねに忘れないようにしていました。それは自分の立場がNPOの側であっても、行政の側であっても。
──そういう意味で、「自分はこういう人のために仕事をしているんだな」と実感されたエピソードや、印象に残っている出来事があれば。
これはわたしが精神保健福祉士の資格をとったきっかけでもあるんですけれど、やっぱり障がいを持ってる人たちへの支援の大変さ、困難さっていうのに気づいて。わたしの仕事は、子どもの預け先を探して、ある時はここで、ある時はここでっていうのを繋いで、計画を立てることだったんですけど、支援する側も余裕があるわけじゃないから、構えちゃうんです。「発達障害」とか「自閉症」って名前を伝えると、なかなか預ける場所がみつからなかったり。「障がい児」って言っても、子どもたちは本当に多様で、ケアの仕方というか、向き合い方も千差万別なはずなんです。そこでは、「その子そのものを、支援する側はちゃんと見えてるのかな?」という疑問は、いつも抱えてました。
──様々な支援を行いながら、そうした現場ならではの葛藤がずっとあったわけですね。
うん、そういう違和感みたいなものは、机上のケースワークじゃ絶対にわからなかった部分です。精神的な障がい、様々な経緯で精神的に健康でいられなくなってしまった人たちのケアもやっていたんですけど、そこで「社会的排除」っていう、教科書の中で知った言葉を、本当に実感しました。わたしは支援する側として接していて、みなさん本当に一生懸命に、生きていくために努力していると感じて、でも教科書的なケースワークだとひとくくりにしちゃうようなところがあるんです。それで、投薬で症状を抑える医学的なモデルに対して、生活モデルという、一人ひとりの生活に密着しながら支援をしていくという方法があるんですけど、その可能性を自分なりに考えたりしていました。手探りで、支援の方法についてずっと悩みながら働いていました。「寄りそう」って言葉がありますけど、それはそんなに簡単なことではないと実感したんです。でもとにかく現場でひとつひとつ解決していくしかないから、手探りで、粘り強く。
「違和感や迷いを忘れずに、みんなが幸せに生きられる政治をどうやってつくるのか」
──日野市を「こういうまちにしたい」「こういう社会にしたい」というビジョンはありますか?
子育て支援の拡充や、高齢者や障がいを抱えた方々の社会参加、性暴力やDVの被害にあわれた方々の支援、セクシュアル・マイノリティの方々の相談窓口など、福祉の現場で「こうだったらいいのに」と感じていた、具体的な政策や制度がたくさんあります。けれど色んな問題は、実は根っこの部分で繋がっているとも思います。たとえば、わたしは地域で子どもを育てられる環境が大事だと思ってるんですけど、「地域で子育て」と言葉だけで言っていても腑に落ちないと思うんです。子どもだけじゃない、親だけじゃない、高齢者も含めて、大人たち全体で、一人ひとりが幸せを感じられる地域社会をどうやったらつくれるか。それを考えたいです。そうやって初めて、ひとつひとつの政策が生きてくるんじゃないかって思ってます。
──森沢さんが支援の現場で培った感性は、今回立候補を決めた立憲民主党が掲げる「多様性」や「支え合い」というキーワードと繋がりますか?
そうですね。たとえば「多様性」っていうのは、抱えている問題も、幸せな瞬間も、それぞれ一人ひとり違う、そこに寄りそうって意味だと思うんです。まあ、いまわたしも「寄りそう」ってこんなに偉そうに言ってますけど、仕事でも家族に対しても、「なんでこうなの!」って思っちゃうことはあるんです。だからやっぱり「寄りそう」というのは、そういう綺麗ごとじゃすまないことを、地道にやってくことなのかなって思います。それはただの我慢とは違って、相手の気持ちになって考え、違いを受け入れていく。そういう部分をわからずに、ただ綺麗な言葉を並べていても、響かないんじゃないかなって。支援の仕事をしていても、「一人ひとりの抱えている問題を、自分は本当にわかってるんだろうか?」って自問自答していました。「わかったふりしてるだけじゃないかな?」って。そういう違和感や迷いを忘れずに、みんなが幸せに生きられる政治をどうやってつくるのか。それがこれから地方政治に求められていることなんじゃないかと思います。
──男女格差を示すジェンダー・ギャップ指数で日本は今114位で、先進国では最低です。女性議員としてこれからどう活動していきたいというのはありますか?
今までの日本の政治のバランスがおかしかった、っていうのはすごく思うんです。わたしが子どもの頃、日野の市議会って、女性議員はわたしが知っている限りでは最初は1人で、その後すこし増えて2人とかだったんです。男女平等を推進していても、やっぱり男性議員ばかりであれば、どうしても目線が偏っちゃいますよね。もちろん男性議員でもちゃんと考えてらっしゃる方はいると思うんですけど、やっぱりこれまでのバランスはちょっといびつだったんじゃないかと思います。
「結局、わたしは現場人間ってことなんでしょうね。ほんとに目線が現場なんですよ」
──キャッチフレーズのひとつが「Face to Face」ということで、その言葉にこめた気持ちを説明してもらえたら。
政治家になっても一人ひとりと向き合いたい、という気持ちを込めました。だから…結局わたしは現場人間ってことなんでしょうね。ほんとに目線が現場なんですよ。文章で言われてもピンとこないことが、その場にいけば一瞬でわかるし、そして現場で目にしたもの、耳で聞いたことが、自分にとってとても大きな経験になっている。これから政治の世界でたくさん勉強して、いい政策やいい制度を作っていきたいという想いはありますけど、その気持ちは忘れたくないです。
──実はお父様も市議会議員をされていたと聞きました。これまで自分が政治家になることを想像したことありましたか?
いや、それはまったく。想像してなさすぎて、とくにやらないとも思わなかった。でも、今回は、自分がNPOや行政のスタッフとして、ずっと葛藤を抱えながら働いてきて、その現場で感じたことや培った力を、政治に活かしたいって、ストレートにそう思いました。うん。出してみたい、ずっと自分が考えていたことを。
──昨年10月の立憲民主党の結党の時は、一市民として見ていたと思います。森沢さんにとって立憲民主党はどんな存在ですか?
選挙の時に立憲民主党ができたことは、単純に嬉しかったです。「やった!投票先ができた!」って。立憲主義ということもそうだし、原発の問題をちゃんと考えようっていうのもそうだし、それ以外は…やっぱり多様性とボトムアップ。多様性とボトムアップという言葉は、自分が探していたキーワードなのかなと思ったから。その理念への共感は、間違いなく今のわたしのパワーになってます。
──最後に市民の方々にメッセージがあれば。
これまでの政党ってイメージ的に、市民が近づきづらい部分というのがあったと思うんですけど、立憲民主党はできたばかりのせいか、とても風通しがいいです。わたしも現場の感覚を忘れずに、すごい自然体でやらせてもらってます。だから市民の人たちにも、どんどん政治に飛び込んできて欲しい、困ったことがあったら頼って欲しいって思います。それが、立憲民主党が本当に市民に受け入れられるということだと思うから。
森沢美和子 MIWAKO MORISAWA
1967年日野市多摩平生まれ。社会福祉士、精神保健福祉士(国家資格)。共立女子大学家政学部被服学科卒業後、アパレル会社に勤務。長時間勤務と子育てとの両立に悩み続ける。店舗閉店により退職、日本社会事業大学大学院福祉マネジメント研究科(専門職大学院)修了。夫、娘(受験生)の3人家族。趣味は映画鑑賞、高尾山程度の登山、今夏は八ヶ岳に挑戦予定。18歳の娘がアイドル好きで一緒にライブにも行く。