青森県弘前市で、弁護士ひとすじ30年。青森県弁護士会会長も務めた小田切さとるは、還暦を超えて政治の道に足を踏み入れた。
「言ってしまえば、青森は昔から決して豊かな土地ではないです。でも、昭和の時代は頑張れば豊かになれる希望があった。今はその希望がなくて、あきらめている人が増えている」。多重債務や離婚、解雇された労働者の補償、弁護士過疎問題解消など、一貫して地域のために働いてきた小田切は近年、変化を肌で感じている。
人口減や交通インフラの脆弱化など、地方社会が抱える課題は、今に始まったことではない。青森では戦後、第一次産業以外でも経済を活性化させようと誘致した製造業はなかなか定着せず、人口減少率は全国ワースト3に入るなど「課題先進地域とも言えます」。
「我慢強い、いや我慢しすぎだ」。青森の人のこれまでの気質を、小田切はこう捉える。だが一方で、「表に出てこないマグマのように、変化を求める気持ちが伏流している」。その流れを感じ取り、「いまが声を上げるときだ」と2月に政治活動を始めた小田切に、長年見てきた青森への思いと、政治家としての展望を聞いた。
テレビがある家は1軒だけ。開拓地で見た貧しさが原点
――自己紹介をお願いします。
小田切さとるです。弁護士として28年間、青森県弘前市を拠点に活動してきました。県弁護士会会長としては、人口に対する弁護士数の少なさを解決するため、法曹人材の育成、定着に取り組みました。
――青森のお生まれですか?どんなお子さんだったか教えてください。
はい、弘前市生まれです。子どものころはおとなしくはなくて、けがが多かったので親は大変だったみたいです。窓ガラスに手を突っ込んだり、温泉からあがる時に踏み台の角に足をぶつけたり、落ち着きがなくて体中いろいろなところを縫いました。
小学校2、3年生のときは、開拓地に住みました。十和田湖近くの山の上で、戦後に開拓をされた土地です。
教師だった父が、そこの分校で教鞭をとることになったためです。分校の生徒数は小学校1年から中学校3年までで合わせて40人くらいで、3つの学年の生徒が同じクラスになる「複複式学級」というものでした。僕もそこに通いました。
――開拓地での生活はどんなものでしたか?
開拓地の人たちは、みんな非常に貧しかった。20戸くらいのうち、テレビがある家は1軒だけ。父が住民の人と一緒に、ニンジンをトラックに載せて近くの黒石市まで売りに行ったりと、忙しく働く姿を見ていました。
その時々の農業政策で、作付けする作物がコロコロ、コロコロ変わるから、持続性がなくてなかなか収入が安定しない。国策に振り回されていました。なかなか暮らしが上向かないけど我慢して、必死に働いている人たちがいるんだ、と子どもながらに感じていました。
「地方の時代」に背中を押されて弁護士の道へ
――中学、高校のころはどんなことに熱中していましたか?
高校は山岳部で、仲間と一緒によく山登りをしていました。自由な校風だったので、顧問の教師抜きで行くことも多かった。少年たちだけの、自由な空間は楽しかったですね。学校の近くの八甲田山を1往復登って降りて、麓を少し歩いてまた登って下りて、なんて強行軍もしてましたね。自由を満喫しすぎて、恥ずかしい話、高校の頃には停学になったこともありました。反省しています。いわゆる優等生ではなかったかもしれない(笑)
――それは意外です(笑) この事務所には蔵書が本当に多いですね。いつ頃から本を読むようになったんですか?
高校生のころですかね。いろいろ読書する中で印象的だったのは、僕が大学生だったころ盛んだった「地方の時代」という理念です。1960年代の終わりから70年代後半にかけて、地方の経済成長率が大都市圏を上回ったり、個人所得格差が縮まったりした時がありました。
それで、地方が主役となって自治を進めよう、という理念の「地方の時代」が脚光を浴びていたんです。2年間だけど開拓地に住んでいた経験から、もともと青森で地方活性化のために働こうと思っていましたが、この理念には強く背中を押されました。
青森は「雇用の調整弁」と感じた、縫製工場の全員解雇
――弁護士として、どのような案件を手掛けてこられましたか?
労働問題が多かったです。たとえば弁護士になりたてだった30年ほど前、縫製工場閉鎖で40人の女性従業員が全員解雇されたのを受けて、その労働争議を担当しました。原告団と労働組合を作って、組合運動経験がない40人の女性従業員をまとめていきました。
――なぜ全員解雇なんて事態になったんでしょう?
当時は県が1次産業以外の産業をつくろうと、東京に本社がある企業を誘致して、特に縫製関係の工場が結構ありました。人件費が安いからこっちに進出するんです。でも結局、会社の経営状態が少しおかしくなると、最初に青森の従業員がクビを切られる。「雇用の調整弁」のような位置づけなんだ、と強烈に感じましたね。
最終的には解雇を受け入れて金銭補償を受ける、和解で決着しました。弁護士としては申し訳ない終わり方で、これで良かったのかと思いました。元従業員の人たちがねぎらってくれたのには、救われた気がしました。
日々の法律相談から見えてきた、貧困の連鎖
――青森県は1人あたり県民所得や、県内総生産がほかの都道府県に比べて低い、という統計が出ています。
地方、とくに青森は他の都市部と比べると貧困が連鎖しやすいのではと思います。たとえば、青森県内には法学部がないから、法律を勉強したい人は必然的に県外に行くために、学費の他に生活費がかかる。それをどう賄うかというと、奨学金という名の教育ローンでしょう。
離婚案件の法律相談もよく受けていたのですが、そこでも貧困が連鎖しやすい構造がありました。たとえば、元妻が親権者として子どもを育てることになりましたが、養育費が問題になって、元夫の雇用が不安定で給与も低いので、養育費は無しで公的助成でやっていくことになりました。
元夫の収入が少なくて安定しないから、そういうことが起こる。同じようなことは頻発しています。所得基盤が安定しなくて多重債務を抱える例も、飽きるほど見てきました。
――いまは改善されていますが、弁護士過疎率で青森が日本一だった時期もありました。
法律相談の体制が十分ではなかったことも、状況が改善しなかった一因かと思います。僕が弁護士を始めたころは、弘前市の弁護士は6人体制で、車で片道1時間かかる五所川原市までカバーしていました。
弁護士会会長をしていた時には、日本弁護士連合会などが弁護士過疎解消のために開く「ひまわり基金法律事務所(公設事務所)」に来た弁護士の定着に力を入れました。司法試験合格者の増加もあり、今ではかなり解消されてきましたね。
困窮家庭「子どもを大学進学させられる」のは3.7%――明るい未来を諦め始めたひとびと
――青森で30年間弁護士をしてきた小田切さんから見て、どんな変化がありましたか?
昔から青森って貧しかったですよ。けれども、頑張ればそこから抜け出せるっていう希望があった。最近はいくら頑張ってもここから抜け出せないのではないか、とあきらめつつある人が増えている感じがします。
――県内の小学5年生と中学2年生の子どもと親に対する「青森県子どもの生活実態調査」の結果が3月に発表されましたが、貧困の連鎖をなかなか断ち切れない、という意味で象徴的でした。
僕が日々の法律相談の中で感じてきたことが、数字で裏付けられたと感じました。アンケート回答者全体の1割強が困窮家庭。特に、県民が明るい未来を諦めつつあるなと強く感じたのは、困窮家庭の親の5割は子どもを大学に進学させたいんだけれども、実際に進学させられると思っているのはたったの3.7% 、という数値です。
ほかにも、経済的な理由で食料品が買えなかったことがある世帯が、「よくあった」から「まれにあった」まで含めると7割。子どもを医者に連れていけなかったことがあるのが3割など、苦しい生活が浮き彫りになっていました。
「どうにもならない」国の政策への歯がゆさが、政治家への道
――ずっと青森で弁護士をしてきた小田切さんが、国政を目指す理由は?
弁護士として、人々の生活が良くなるよう努力してきました。でも、国の政策に翻弄されている場面では、どうにもならず歯がゆい経験を積み重ねてきた、というのが動機です。国の政策自体の課題が長年やるうちに見えてきて、そこを改善していきたいなと思うようになっていました。そこにお声がけがあったので、ではやってみようかと。
いちばん記憶に残っているのは、国鉄民営化に伴う人員整理の問題です。1980年代後半、僕が弁護士になって間もないころのことでした。経営陣にモノを言う、扱いづらい労働組合員が、人事面で露骨に冷遇されることが常態化していました。
民営化は国策だということが楯になって、労働者の基本的な権利を守るのが難しかった。普段なら到底できないような理不尽なことがたくさん起きていました。それを見ていて、弁護士という立場でやれることの限界を感じたんです。
中央に追随すればいい時代は、終わった
――政治家として取り組みたい重点分野を教えてください。
貧困問題と農業です。貧困問題の現れ方は程度こそ違いますが、都市、地方に関わらず日本全国共通の問題だと思います。僕がよく見てきた、離婚した元夫の養育費が公的助成より少なくて貧困が連鎖してしまう、という事態は沖縄でもよく見られるそうです。
青森は県民所得が全国で下位の方で、人口減少率はワースト3以内。日本全国の地方が直面する課題の縮図ですから、それを解決できるモデルをつくっていきたい。もう他の都道府県のまねや、国が示すモデルへの追随ではない、青森自身の課題解決の方法論が必要な時代だと思います。
リンゴ農家の台風被害で冷え込む地域経済――基幹産業に「体力」つける支援必要
――どのように解決できそうですか?
シングル家庭や子どもに対する支援で不足している部分を拡充するのに加えて、貧困をおおもとから解決するには、やはり地域経済の活性化が必要です。青森県は農業や漁業のように、気候によって収入にアップダウンがある産業が中心です。基幹産業に根差さない地方創生は考えられない。基幹産業の体力をつけた先に、本当の「地方創生」があるはずです。
青森の経済の中心が農業であることは、弁護士をしていて肌感覚でわかります。たとえば、僕が弁護士になった年に台風19号が来て、県内のリンゴ農家が壊滅的な被害を受けました。その後は3年間くらい、リンゴ農家でなくても法律相談に来る人の数が減った。別に争いごとが減ったわけではなく、景気が悪くてお金がないから訴訟も起こせないんです。
――どんな農業のかたちを目指していくべきでしょう?
国が支えるべきところは支える農業を、目指す必要があると思います。非常に地味な話をすると、僕がよく現場で聞くのは、農薬の容器は農家の負担で処理しないといけない。農薬自体が高いのに廃棄もとなると、負担が大きいようです。少なくとも廃棄物処理は公的に手当しても良いのでは。農業に「体力をつける」とは、そういうことだと思います。万が一の時のセーフティネットをもっと充実させないと、若い人は安心して参入できない。
――現在は政府、青森県ともに「攻めの農業」を掲げ、農産品輸出や生産者による販路開拓を進めています。
たとえばリンゴの海外輸出を積極的にやって、成果も上がっているようですが、攻める商品ばかりじゃないわけですよね。国民が消費するために国内で生産する必要がある、地味な農産物もあります。それをTPPによる輸入農産物から守る方に注力すべきだと思います。
――小田切さんが聞いてきた現場の声を、どうやって政治に反映していけるでしょうか?
現場の声をくみ上げ、政治に反映する民主主義の仕組みが壊れていることの象徴が、安保法制や特定秘密保護法だったと思います。現政権は国会の議論では論点をずらし、まともな情報公開もされていない。そして国民を騙しきれなくなると強行採決。大事な問題になればなるほど、そういうやり方をしていた。
だからとても地味だけれども、市民から政策の意見を聞く、立憲民主党のタウンミーティングのような場を積み重ねていくのは、政治が現場から遊離しないためには非常に大事かなと思っています。効率は悪いかもしれないけど、改善しながら続けていくべきと思います。
青森人は「我慢しすぎ」――今が声を上げるとき
――小田切さんから見て、青森の人たちの気質はどんなものと映りますか?
我慢強い、というと美徳のようですが、我慢しすぎという感じがしますね。僕はもちろん青森が好きだし、素晴らしいところだと思っています。でも、戦後ずっと安い労働力の供給源であり続けて、米軍基地や、原発、核燃料施設などいわゆる「迷惑施設」の引受先になってきたのは、歴史的に一貫していることです。地元の力ではどうにもならないことをあきらめるのに、慣れてしまっている。青森県民は、もっと声を上げないといけないと思います。そうしないと、地方の声は国政に届かない。
マグマのように、変化を求める気持ちが伏流している
――最後に、目指す政治家像を教えてください。
これまで弁護士業を通して、青森の生活の現場を目にしてきて、その実態は政治の言葉できれいにまとめられるような、おとなしいものじゃないと感じてきました。表には出てこないマグマのように、現状への怒り、変化を求める気持ちが伏流している。そして先ほどお話しした貧困の連鎖へのあきらめは、逆にマグマが噴き出る寸前まで来ていることを表しているのではないか、と思います。
政治は現場にいちばん近いところで苦しい人々の声を聞いて、解決策を考える仕事のはず。だけどこれまで、その声をすくい上げきれなかったのでは。だから僕は政治家としては、現場の声を正面からぶつけていく、「扱いにくい」存在でありたいです。
僕は県弁護士会の会長になった時、裁判員制度反対と会見で表明して、周りを慌てさせたことがあるんです。当時、反対する弁護士は少数派でしたから。多様な意見は多少煙たがられても発信しないといけないと信じています。この姿勢は、政治家になっても大切にしたいですね。
小田切さとる SATORU ODAGIRI
1957年、青森県弘前市生まれ。弘前市立城西小学校、青森市立浦町中学校、青森県立青森高等学校卒業。1984年に北海道大学法学部卒業。1991年に弁護士登録し、弘前市で弁護士活動を始める。2000年に独立、小田切さとる法律事務所を弘前市内に開設。民事事件を中心に青森県内の案件を数多く手掛ける。
青森県弁護士会長を2期、日本弁護士連合会理事を2期、東北弁護士会連合会副会長を2期務めたほか、県弁護士会消費者問題対策委員長、弘前大学監事、青森県入札監視委員会委員長などを歴任。
現在は弁護士業のかたわら、2014年に施行された特定秘密保護法の廃止を求める市民団体「STOP秘密保護法つがるの会」の代表、弘前市政を生活者目線で評価する「市民カフェ弘前」店主をつとめる。
趣味は読書で、特に推理小説をよく読む。好きな食べ物は津軽そば。家族は妻、長男、長女、次女。