春になると全国でいっせいに取りざたされる待機児童問題。国政でも地方政治でもその解決がうたわれるが、実際の対策はなかなか進まない。4月8日告示・4月15日投開票の練馬区議会議員補欠選挙に立候補する野沢ななは、自身も認定こども園を運営する保育問題のスペシャリストだ。彼女は、練馬区を保育政策の先進地域にしたいという想いで今回の立候補を決めた。
*このインタビュー記事は、過去に掲載したものを再編集しアップしています。
いじめを受けた小学校時代、生き方に悩んだ中高時代
──自己紹介お願いします。
野沢ななと申します。1974年生まれ、現在43歳です。生まれたのは岩手県、横浜で育ちました。その後、東京に戻ることになり、10年ほど前に練馬区に居をかまえました。練馬はもともと母方の実家があり、幼少期は石神井公園の近くに住んでいたこともあって、すごく愛着があったんです。石神井公園近辺は、戦後、家をなくした方のための一戸建ての都営住宅がたくさんつくられていて、母の家族もそこに住まいを得ていました。畑を借りて野菜を育て、ペットにヤギを飼っていたそうです。
──ご実家が教会だと聞きました。それもあって転々とされていたんですか?
そうですね。中高は横浜で、高校を卒業してからハワイ州のオアフ島で1年間ほど滞在して働いて、その後大学に入学しました。修士課程も含めて6年間。その後は、高校で講師として教鞭をとったり、実家が幼稚園を経営していたんですが、そこで事務をしたり。現在は、3年前に認定子ども園にしたその園を中心に、保育と教育について実践も含めて試行錯誤しています。
──最近でいうギャップ・イヤーというか、なぜ大学入学前に海外に?
通っていた学校は私立の中高一貫校で、その穏やかな環境が思春期のわたしには何だか不安に感じられたんです。平和に高校に通って、このまま大学に進学してしまうと、自分はなにも成し遂げられないんじゃないか? という思いに駆られてしまって。とにかく外の世界に出たくて、郵便局でアルバイトをしたり、ボランティアの研修会に顔を出したり、学校をサボって横浜を巡航している船に乗って詩を書いたり(笑)。成績は良いほうだったんですが、出席日数はギリギリでした。とにかく高校に行く時間がもったない。自分を鍛えたいというような感覚があって、いろんなところに顔を出していました。
──すんなりと進学しなかったことに対して周囲の受け止めはどうでしたか?
両親は反対しなかったです。自分の道を進みなさい、と。でも、進学していく同級生たちからは落ちこぼれ扱いでしたね(笑)。
──自分の人格形成で重要だったことってありますか?
人生で最初にぶつかった壁は、小学校の時に受けたいじめです。きっかけは他にいじめられている子がいて、その子をわたしがかばったことでした。子どもながらに、大勢でひとりをいじめるという行為の理不尽さが、わたしにはどうしても理解できなくて。いじめを受けていた時は、物がなくなるのはしょっちゅう。取り囲まれて飛び蹴りされたり、わたしも気が強いほうなので、ついやり返してしまったり。「ブス」っていう罵倒もあったりして、子どもながらに本当にきつかったです。結果、学校にも行きたくなくなって。でも、わたしは両親にも何も話さなかったから、親は理由がわからない。それで、学校に泣きながら引きずられていったこともありましたね。
──ほかにもありますか?
やっぱり父が牧師だったいうの大きかったと思います。家にいろんな事情のある人が避難してくるんですよね。中には虐待されている子もいました。そういう意味で、いろんな人の悩みを見て育った気がします。わたし自身、いじめを受けた時は死にたいとも思った。なんで生きなきゃいけないのか、何に希望があるのか? というとても大きな問いは、その頃に抱いた気がします。それに、クリスチャンのコミュニティというのは国際的なので、隣国ではクリスチャンであることを理由に投獄され、拷問を受けたりしていた様子を身近に知っていましたから。「人権問題」ということに、教科書で学ぶのとは違う、ひりひりするようなリアリティを感じる環境だったと思います。
教育現場で得た経験
──高校で講師として教えた経験もあるということですが。
大学院卒業して2年ほどですね。たまたま少々大変な学年の、少々大変なクラスの担当になって(笑)。 きちんとした学風の中高一貫校で、ある程度経済的に恵まれた生徒が通う学校ではあったんですけれど、やはり家庭の環境は千差万別ですから、どうしても疎外感を抱いて、学校教育に違和感を覚えるような生徒は一定数いるんです。けっこう大変な思いもしましたけれど、さっきもお話しした通り、わたし自身、高校の時は周囲の環境に疑問を持ってしまうような子どもだったので、複雑な思いを抱えながら生徒と向き合ってました。座って授業を受けていられない子たちを、抱きかかえて椅子に連れて行くところからやっていましたから(笑)。きっとわたしが年齢も若かったから、生徒たちにも甘えのような気持ちがあったんでしょうけど、新人のわたしには少々タフな経験でした(笑)。
──教育現場の経験で一番得たものは?
自分に対して必ずしも好意的でない、ときに攻撃的な生徒に対しても愛情を持つようになったことですかね。いまでも、政治活動をしていてひどいことを言われることもありますけど、言われた言葉よりも、どうしてこういうことを言うのか、その意図というか、理由が気になるようになりましたね。生徒たちと向き合う経験が、そういう考え方を与えてくれた。
──当時で心に残っているエピソードがあれば。
一番印象的だったのは、ご両親の関係があまりよくなくて、周囲の誰にも頼れない生徒がいたんですね。彼女はすごくすさんでいたんですけれど、一年わたしなりに向き合い続けて、卒業する頃には、わたしのことを「好きだ」って言ってくれて。もちろん教師としてできることには限界があって、わたしに見せてくれたその子のつらさも、きっとほんの一部分だともいます。でも、その子の抱えているものの片鱗に少しでも触れられたことは、自分にとっても大きな経験でした。
わたしは幼稚園の中で育ったようなものなんです
──それでは保育分野の仕事を始めたきっかけは?
そもそも、わたしは幼稚園の中で育ったようなものなんです。父の教会にはいつも幼稚園がついていましたから。子どもの頃からずっと園児が周りにいる環境だった。もちろん思春期とか、多感な時にはそれが嫌だった時もありました。子どもは無邪気で、でも残酷な時もある。とくに自分がいじめにあってからは、なかなかポジティブにはとらえられなかった時期もありました。でも、高校での講師の経験を経て、最初は事務として幼稚園に務めるようになってからは、自分の中で変化がありました。
──というのは?
自分が仕事として子どもたちに向き合い始めたとき、やはりそれまでとは違う気づきがあったんです。人格的なふれあいというか、たとえばお祖母さんが亡くなった子がいたら一緒にお祈りをしたり、飼っているペットが死んでしまったときも、その子の悲しみによりそう。ほかにも、発達障害がある子どもたちもいましたから、その子の持ってる素質というか、それに向き合おうとした時に、愛情というか、愛おしい感覚が出てきたんです。
──ずっと保育事業にかかわってきて、保育の現状についてどう考えていますか? 「認定子ども園」のことも合わせて聞かせてください。
なによりもまず、子どもたちをとりまく環境が急速に変わってきていることです。旧来の幼稚園は教育的機能を負ってきて、それに対して保育というのは福祉の機能です。最近は共働きの家庭も増えてきて、両親がそれぞれに仕事を持っています。わたしは、保育園に入っている子どもたちにも、教育のチャンスはあるべきだと思うんです。発達学の視点から見ても、3歳から5歳というのは非常に重要な時期です。そこで、保育と教育を同時に行う「認定子ども園」という取り組みを始めたんです。教育の機会というのは、家庭環境に関わらず、すべての子どもに用意されているべきものですから。
練馬を保育の先進地域に
──練馬に保育環境ついてはどうでしょうか?
いま練馬には約240名の待機児童がいます。それを受けて練馬区でも待機児童対策が進んでいます。とにかく、子どもの居場所がないということは絶対にあってはならない。そういう意味では、現在の対策も大枠の方向性としては評価すべきです。でも、現実的な環境の整備を考えると、決して十分ではないかなと。トイレだとか、保育士の労働環境も含めたケアの水準だとか、子どもの命を預かる施設として、よりきめ細やかに整備を進めていく必要があります。待機児童の解消という数値的な目標を達成するために、保育の質が軽視されてはいけない。これは命の、人権の問題ですから。
──国全体の方針については、ご自身の経験から言って他にもありますか?
一時期政府が掲げていた無償化の路線には、まず全入化が実現しなければ限界がありますよね。まずはその子どもたちに居場所をつくること。でもわたしは、命の安全を守る保育環境を用意するだけじゃなくて、教育の機会も整備しなくちゃと思っています。それは結果的に先進的な取り組みになるかもしれないですけれど、練馬から、それを日本の保育のスタンダードにしたい。そう思ってます。
──他方で、保育の現場で働く方々、保育師の待遇についてはどうでしょうか?
保育士の処遇改善は、現在の政府も打ち出しています。でも、残念ながら現場のニーズとは食い違いも生じてしまっていると思います。たとえば、現在は4月1日の職場の平均の勤務年数を基準にして補助金を出しているんですけれど、それを受けて現場の中には、ベテランの人たちの退職を4月1日にずらしたりするところもあるんです。そもそも最初の給料の水準が低くて、長く続けられないのが保育士の労働環境の最大の問題点です。もっと現場の実情に合わせた支援が必要だと思います。
──立憲民主党も、政策の方向性として、保育や医療などのケア分野で働く人々の賃金アップを唱えています。
そうですね。でもたとえ賃金をアップしたとしても、それでもまだまだ他の業種に比べて平均は低いです。やはりもっと強力な公的なサポートがなければ、幅広い所得の家庭の保育のニーズを満たすことはできません。労働環境が良くなれば、職場の風通しもよくなるし、やはり社会全体で努力して保育業界の現場を変えていかなければと思っています。
誰かが転びそうになったら、誰かが手を差し伸べる
──具体的に練馬で実現したい政策はありますか?
具体的には、練馬区の区立保育園をこども園にしたいんです。現場の最前線でその挑戦をしているからこそ、見えていることがたくさんあります。今後の日本の保育政策のモデルになるような実践に、今度は政治の側からそこにアプローチしたいんです。
──他にはありますか?
わたしは昨年、母親を自宅介護の末に看取りました。住みなれた自宅で最期の時を過ごしたいということで、わたしが介護を引き受けていたんですけれど、 母親が苦しみ出して、お医者さんに見せようと病院に電話しても、「1日半待ってください」と言われる。お医者さんが足りてないんです。そして他の先生との連携もとりにくい。練馬はベッドタウンで、つまり幼児保育からターミナルケアまで、ここで一生を過ごす人が多い。一生涯をちゃんとしたケアとともに過ごせる街にしたいです。ただ、制度的な問題とともに、こころの問題も考えたいと思っています。
──というのは?
福祉政策の専門家の方と話していた時に、「真の福祉大国というのはどういうものか?」 という話題になったことがあって。もちろんゆりかごから墓場までの制度も大切だし、安定した医療環境やバリアフリーというのも大事です。でも、根本にあるのは、誰かがつまずき、転びそうになった時に、誰かが手を差し伸べる、その感覚だという話になったんです。わたしにとっては、その考え方はとてもしっくりきました。
練馬から日本の未来を考えたい
──野沢さんからみた練馬の魅力ってなんでしょう?
やはり、他の東京の中心部の区と比べて、緑が多いことじゃないでしょうか。父はもともと東北の開拓農家でしたから、わたしも子どもの頃父の実家に行って触れ合うペットは牛だったんです(笑)。その緑の多さが影響していると思うんですけれど、やはり練馬は子どもの人口も多いです。わたしが練馬で先進的な保育政策を実現できると考えているのもそこが理由です。他の自治体のモデルになり得るような、新しいことを試みることのできる雰囲気があると思います。
──注目している問題はありますか?
農業における「22年問題」ですね。22年問題というのは、2022年に農地は農業にしないといけないという法的な制限が切れるという問題です。新たに住宅地が増える一方で、空き家が増えることが確実と言われています。そこに高齢化の問題も重なってくる。でもわたしは必ずしも悲観的ではないです。都市部からこれだけ近い地域で農業政策を考えることができるんですから、むしろチャンスととらえて、農地利用の新たな可能性を切り拓くべきだと思っています。
──いまの日本の政治についてなにかありますか?
日本はいま転換期にあると思ってます。国や行政がなにもかもできるという時代ではない。社会の上層の人たちが、トップダウンでなにかを決めれば物事が進むというのは、リアリティがないと思うんです。社会は一人ひとりの個人がつくっている。その個人が、わたしが社会を変えていくんだ、という意識が大切だと思っていて。それは練馬という自治体のことを考えても同じことだと思っています。
──現在の日本社会のジェンダー・ギャップ、とくに政治分野での男女間格差についてどう考えていますか?
そうですね。日本の政治の世界では女性はまだまだ少数派で、男性に比べてハードルが高い部分はあります。そうしたギャップは解消していくべきだと思います。ただ、人間って多面的だと思うんです。わたし自身は政治の世界ではマイノリティですけれど、他の部分でも必ずしもそうであるとは限らない。たとえば障がいを持っていたり、思想や国籍の面でのマイノリティだったり…そうした立場の方々のことも、自分の問題と同じように切実に考えていきたいと思っています。
──練馬の市民へのメッセージをお願いします。
正直にいえば、新人のわたしがなにからなにまでカバーした総合的な政策を提示しても、説得力が欠けるんじゃないかって思っています。わたしにできることは、教育と保育に特化すること。教育は社会の礎だと思ってますから。それはきっと自治体の住みやすさ、生きやすさにも、財政の問題にも繋がっている。さっきも言いましたけれど、日本はいま転換期にあると思っています。国が、社会が、一人ひとりの個人が変わっていかなければならない時期に来ている。わたしは練馬から声を上げたい。みなさんと一緒に、練馬区から日本という国の未来を考えていきたいと思っています。
野沢なな NANA NOZAWA
1974年生まれ。岩手県で生まれ、幼少期を母方の実家の石神井で過ごし、横浜で育つ。青山学院横浜英和中学・高等学校卒業。米国ハワイ州でのボランティアを経験後、東京神学大学に入学・卒業(神学修士)。高校での講師や幼稚園での事務を経て、現在は認定子ども園で子育て支援と教育に携わる。