2019年4月6日
FROM OKINAWA TO OSAKA
2018年9月、日本全国の注目を集めた沖縄県知事選。辺野古の新基地建設に対し明確にNOをとなえ、「新時代沖縄」を掲げた玉城デニー候補が、歴代最多得票で新知事に就任した。
2019年2月には辺野古埋め立ての是非を問う住民投票が行われ、投票者の7割以上、43万人が反対に投じた。強行に基地政策を推し進める政府に対し、沖縄ははっきりと民意を示したことになる。ホワイトハウスへの署名には20万筆以上が集まり、著名人なども声をあげた。が、政府はそうした声には耳をかさず、建設強行の態度を取り続けている。
「基地問題は沖縄だけの問題ではない。日本全体の問題だ」——だとすれば、現在問われるのは、沖縄以外の土地に生きる「わたしたち」の姿勢のはずだ。「抵抗する沖縄」をロマンティックに語るのではなく、沖縄で生きる「ふつうの人たち」の声にこそ、耳を澄まさなければいけない。
沖縄をフィールドに長年生活史研究に取り組んできた岸政彦教授は、2018年に『はじめての沖縄』、『マンゴーと手榴弾──生活史の理論』の2冊の本を上梓した。自らの生活拠点である大阪でも、昭和の面影を残す駅の改装計画に反対する署名を呼びかけるなど、積極的に行動している。沖縄からの声に、本土の私たちはどう向き合うことができるのか。沖縄、そして大阪の現在について、岸教授にインタビューした。(※本文中の写真は岸教授による撮影)
「普通の人」の「何気ない話」が好きだった
――最初に自己紹介も兼ねて、社会学者を志すようになったきっかけからお話いただけますか。
もともと貧困や暴力やマイノリティといった問題にも関心があったんですが、僕の場合はどちらかと言うと、普通の人の何気ない生活の話を聞くのが好きだったのが大きな理由です。
小学校の頃、読者投稿欄だけでつくられた『ポンプ』という雑誌がありました。長文もあれば、一言ギャグや写真、イラストだけのはがきもあって、今で言うところのツイッターみたいなものですね。だけど、その他愛のないはがきの中に人々の生活があるような気がして。集めて机の上に並べてうっとり眺めてるような子どもでした。
高校生になってからは、鎌田慧や本多勝一なんかのジャーナリストが書いたルポルタージュを読むようになりました。特にスタッズ・ターケルが大好きで、こんな本をいつか書きたいと思っていました。だけど他人と話すのは苦手だったので、ジャーナリストのようにフリーの立場で話を聞く度胸はなくて。それで、社会学者が思い浮かんだんです。その頃からマックス・ウェーバーなんかを読んで、社会学には親しんでいましたから。大学に入ってからは釜ヶ崎に通ったりもしました。
行き場のなかった青春時代、沖縄と大阪、そして自分とを重ねた
――沖縄と出会ったきっかけは。
初めて沖縄に行ったのは、20代半ばの頃です。調査とかではなく、当時付き合っていた彼女と旅行で行って、僕だけドハマりしたんです。日本には画一的な風景しかないと思い込んでいたのに、そこでは言葉も気候も、何もかもが違う。元々は別の国ですし、現在でもなんだか日本の中で独りぼっちに見える。その風景が、当時の自分の状況と重なっていったんです。
――大阪に住んでいた岸さんと、沖縄の風景とがどのように重なっていくのでしょうか。
その頃、僕は完全に行き場を失っている時期でした。大学を出た後、大学院入試に失敗して、実家からの仕送りも途絶えて、彼女にも振られて。日雇いで働いたり、塾で教えたりと、非正規の仕事を渡り歩く生活をしていました。いずれはフィールドワークもするだろうと思い、経験のつもりで始めた日雇いの仕事も、結局4年続けることになりました。修士課程にはとりあえず進んだものの、研究者の就職というのはとても厳しく、将来も見えない状況が続きます。
同じ時期、大阪の街も変わり始めていました。1997年に博士課程に入るんですが、その頃から大阪は日本経済の構造転換に取り残されて、一気にどん底に入っていきます。初めて来た時には賑やかだった、大好きな大阪の街が急速に冷え込んでいくのを目の当たりにしていると、自分の置かれた状況と大阪が重なって見えてくる。それがさらに、日本のなかでも特別な場所である沖縄と重なっていったんです。
岸さん自身も経験した「沖縄病」とは?
――大阪の街と一緒にご自身の先行きが不透明になっていく時期に沖縄に出会うわけですね。
日本の中で居場所がなさそうに見える沖縄に出会って、どこにも行き場がない自分の居場所として理想化してしまったんです。そんな風に僕の中では、独りぼっちな沖縄の風景と、没落していく大阪の街の風景と、お金も行き場もない自分の状況という三つが重なっているリアルな感覚があるんです。
けど、それが「沖縄病」なんだということは、沖縄の勉強を始めてからすぐに気がつくことになります。沖縄に同一化しようとする自分の感覚こそ、植民者の感覚なんだ、と。沖縄にあるべき日本の姿を重ねて、憧れたり、けなしたりする日本人の勝手な感覚。
―― 自分自身の「植民者の感覚」を自覚してからも、沖縄から離れようとは思わなかったのですか。
むしろ、そこから自分を引き剥がすために沖縄に関わり続けて、何かを書かなくてはと思っています。自分の理想を押し付けるんじゃなくて、あるがままの「ふつうの沖縄」の姿を捉えるために、どうすれば良いかを考えてきたのがこの20年ですね。
沖縄と内地の間の「境界線」
――沖縄に対する内地の目線を自覚するのはどういう時なんでしょう。沖縄の人から突きつけられたりするのでしょうか。
僕たちは「何しに来たんや」と言われるのが仕事だと思ってるし、そう教えるんですけど、実は幸いなことに、あからさまにきついことを言われたことは一度もないんです。大学教員という肩書を得るまでは、怪しがられたり、警察を呼ばれそうになったりした事もあるけど、それでも話はしてくれました。
――すると、どういったところで沖縄との境界線を感じ取るのでしょうか。
日常の中で、言葉にされないような細かなコミュニケーションの仕方に表現されるんです。以前、「先生は名誉ウチナーンチュですね」と言われたことがあります。とても、とても心から嬉しかったんですが、それでもかすかに、「境界線」のようなものを感じました。つまり「名誉ウチナーンチュ」というのは、ウチナーンチュじゃない人にかける言葉なんです。
普段は沖縄の人のやさしさに甘えて楽しくお酒を飲ませてもらってはいますが、気をつけて付き合っていれば、そういう微妙な距離感に気が付くはずです。そして、そういう境界線や距離感を、いちばん大事にしたいと思っています。それこそが沖縄だと。沖縄はそういう場所なんです。
デニー知事の「新時代沖縄」
――20年間沖縄に通って聞き取りを続けてこられたわけですが、今回の沖縄県知事選挙についてはどのような印象をお持ちですか。
沖縄には長く抑圧されてきた歴史の蓄積があり、その中で培われてきた日本に対する違和感のようなものがあります。そこに経済の好調さと優れた政治家の登場という条件が加わって、今回の結果に繋がったということではないでしょうか。
特に、経済的な条件がこれまでと大きく変わりました。これまでの沖縄の保守派の主張は、「国から補助金をもらう代わりに基地を我慢しよう」というものでした。ところが、最近ではそれが通用しなくなっている。「お金を選んで基地を我慢するか」、「お金を捨てて誇りを選ぶか」といった二者択一ではなくて、どちらも捨てず、両方を主張していくことができるようになった。
――デニーさんが翁長さんから引き継いだ「誇りある豊かな沖縄」という言葉も、基地の争点化を求めてきた革新サイドの「誇り」と、生活の「豊かさ」を追求してきた保守サイドの立場の両立を訴えたフレーズですね。
その言葉にも端的に表れていますが、これまでとは逆の展開が起きているんです。従来は、お金がないから沖縄は基地に反対できないと言われてきました。不公平な構造の中で経済的に弱い立場に置かれて続けてきて、そこで生き残っていくためには補助金に頼らざるを得なかった。そのために、沖縄の人が望んで基地に寄生して潤っているとか、基地がなくなって困るのは沖縄なんだとか、自己責任であるかのように言われてきました。
ところが最近では、過去に類を見ないほどに経済が絶好調です。バイトの時給もじりじり上がっているし、基地は返還して再開発した方が儲かるということが明らかになっている。経済が好調だと、自分たちでやっていける、日本に抵抗できる、という意識も生まれてくる。 沖縄で醸成されつつあった経済的な可能性を政治がうまく言葉にして、有権者に訴えることができたことが、今回の勝因ではないでしょうか。
もちろん、知事選の次におこなわれた県民投票でも、同じことがいえると思っています。投票者の7割を超える圧倒的多数が辺野古の埋め立てに反対している。もはや経済的利益すら期待できない、あるいは基地なしでも経済的にやっていけるということに、みんなが気づいたことの結果なんですよ。
大阪という街の現在
――先ほど沖縄との出会いについて、ご自身と大阪の状況を重ねてお話されましたが、今も重なって見える部分というのはあるのでしょか。
沖縄でデニー県政が生まれる背景にあるのも、大阪で維新の会が支持される背景にあるのも、経済なんです。かつての大阪には「がつがつしている」というイメージがありました。必ずしもネガティブな意味じゃなくて、がめついことをやってでも儲けよう、という強い感覚、たくましい生き方があったんです。
けれどもそれが、自分より儲けているやつを叩きたい、という方向に変わってきている。30年大阪に住んできましたが、人々の間にこれまで感じたことのないようなギスギスした空気を感じます。
――2015年に都構想をめぐって住民投票が行われた時には、市民の分断といった状況も生まれました。大阪の街にギスギスした空気が作られた背景には何があるのでしょうか。
維新の本質は緊縮主義、財政均衡主義を使った権力の獲得にあります。財源がない、どこかを削らないいけいない、という主張が、その政治的な力の源泉になっている。財源がないと言われると、誰も文句が言えなくなります。公務員や教員を叩くだけ叩いて、給料を下げる。公務員に対するやっかみを利用して、一般の人々を動員していくわけです。
もう一つの背景は、人口構造の変化、高齢化です。高齢化が進むと、ストックのある人と、年金くらいしかない人の差が大きく出るから、格差が拡大するんです。すると、後から来た世代に自分たちの財産が食いつぶされている、次の世代に残したくない、という意識が生まれてくる。
デニーさんが沖縄の経済的な伸びしろの萌芽をうまく捉えて有権者にアピールできたとすれば、維新は経済的な閉塞感を煽り、人々を動員すること成功したと言えます。
いま求められる「自治の感覚」とは?
――今回の沖縄知事選で、デニーさんは「沖縄のことは沖縄で決める」と訴えて支持を集めました。岸さんが著書『はじめての沖縄』で書かれていたような、自分たちの自由やルールを自分たちで守る、というような「自治の感覚」を、政治が捉えたと見ることもできますか。
そう見ることもできるとは思います。ただし、「自治の感覚」が実際に力を発揮するためには、経済的な条件が欠かせません。
今、新しい本の準備をしていて、60年代の沖縄の新聞記事を並べて読んでいるんですが、その時代の沖縄は経済成長の真っただ中です。お上に頼らずに、自分たちの力で経済を復興してきたという自信に裏打ちされて、自分たちでやっていける、自分たちのやりかたで決める、という「自治の感覚」も醸成されてくる。
今回の選挙でも経済的な裏付けがあって、日本に抵抗できる、自分たちの未来の展望を自分たちで切り拓くことができる、という感覚が前面に出てきたという事実を見逃してはいけません。
「自治の感覚」は上からは作れない
――最近では、政策的にコミュニティの活性化を促す議論も注目を集めています。そういった「自治の感覚」を意識的につくり出そうという政策論については、どうお考えでしょう。
そもそも「自治の感覚」というのは、都市化や産業化、経済成長のなかで社会秩序が解体しているような時代に、誰にも頼らず自分たちでなんとかやっていくという経験の中でつくられるものです。それを上から政策で植え付けるというのは、発想が逆さまになっていると思います。そもそも、人々が繋がらざるを得ないような背景には経済の問題があります。お上に頼れないからこそ、助け合わざるを得ない。あるいは同時に、お上に頼れないからこそ、自分だけでやっていくしかない。そこに自治と連帯が生まれるんです。
したがって、そのことをロマンティックに考えるのは、どこか違う。家族や地域共同体など狭い範囲に閉じた密接な人間関係は、ともすると、虐待やDVを生む温床にもなるわけですから。60年代の沖縄も急速な経済成長を遂げる一方で、貧困と暴力に覆われたすごくハードな世界です。親から捨てられた子どもが墓地に集まって、子どもの帝国みたいなものをつくっていたり、家族が高齢者をガマ(洞窟)に置き去りにしたりといった過酷な出来事がたくさん起きていたようです。
今からその時代に戻るわけにもいきません。公が面倒を見なければならない領域は確かに存在するのです。
僕は、人びとのあいだに「自治と連帯」とつくりだすためにも、もっとも重要な政策課題は、あくまでも経済成長と再分配、つまり「リフレ」と「反緊縮」だと思っています。あらゆる手段を使って経済を成長させる。同時に富裕層や企業にも、ちゃんと負担をしてもらう。そしてそのお金を中間層や貧困層のために使う。これからの自治と連帯を生み出すには、財源が必要です。「コミュニティ」はタダではできませんし、そもそも、緊縮と財政均衡のために「公」がするべき仕事を「私」に丸投げするという発想には納得できない。
リベラルこそ経済を語るべき
――それでは、政治は何を目指すべきでしょうか。
政治は繋がりをつくることより、むしろ誰とも繋がらなくても生きていける社会を目指すべきだと思います。
たとえば、世帯から排除されている人にも公平な個人単位の社会保障制度をつくる。あるいは、ケア労働者の待遇を改善する。実のところそれらは、社会的な絆の強化とかいうのとは反対から出てくる考え方です。善意とか愛情じゃなくて、条件が良いからその仕事をするというインセンティブをつくる。それが理想だと思います。
保守的な政治家が家族愛とか絆ということを持ち出したがるのは、つまり予算がないからでしょう。介護労働者の待遇改善に予算を割かないことを美化するために、社会的な絆が強調される。それも緊縮からの流れなんです。
財源がない、という緊縮の議論に対抗するために、左派こそ経済成長を語る必要があります。再分配のための経済成長、あるいは経済成長のための再分配といった発想を持つこと。経済成長というものが人々の意識や社会のあり方に及ぼす影響を軽視しないことが重要です。
「ペンは剣より強い」はず ――「地べたの研究者」として
――これからの政治の課題として、日々の生活に追われて政治に目を向ける余裕のない人々に対してどのようにメッセージを届けていくのかという問題があります。今回の沖縄県知事選については「若者が選挙を盛り上げた」という取り上げ方もありますが、まだまだ十分とは言えないように思えます。
そうですね。琉球大学の上間陽子教授が『裸足で逃げる―沖縄の夜の街の少女たち』という本で描いたような、身近な貧困や暴力に対処しなければならない状況で暮らす当事者たちにとって、政治との間にはまだ大きな距離があると思います。
それでも上間さんの本は、とても大きなインパクトがありました。政治に期待していない人々に対して、政治の側からアプローチするよう促しました。あの本で世の中が動いたし、沖縄の世論も変わりました。翁長さんも子どもの貧困問題にかなり力を入れましたし、デニーさんも県知事選では重要な争点として引き継いでいます。
――政治が目を向けきれていない、あるいは政治に期待していない人々の声を拾い上げて政治に繋げ直していくような役割を研究が果たしているようにも思いました。
僕はこれからも地べたで調査する研究者であり続けたいと思ってます。上間さんの仕事がもたらしたインパクトを見ていると、そういう立場でこそやれることがあるんだと思えます。やっぱり、ペンは剣より強いんです。
岸政彦 MASAHIKO KISHI
1967年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。社会学者。主な著書に『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』(2013年、ナカニシヤ出版)、『ビニール傘』(2017年、新潮社)、『はじめての沖縄』(2018年、新曜社)、『マンゴーと手榴弾―─生活史の理論』(2018年、勁草書房)。