2018年6月10日
ボトムアップで、立川に新しい政治文化を根づかせたい
東京の郊外では農地の宅地化が進むことで、現在では珍しく人口増を経験している自治体もある。東京西部の中核都市である立川も、駅前の再開発と宅地化によって近年目覚ましい発展を遂げてきた。しかし、子育て支援や高齢化問題への対処などの課題ももちろん存在する。6月10日告示・6月17日投開票の立川市議会選挙に立候補する稲橋ゆみ子は、すでに立川市議会議員として3期12年つとめてきたベテランだ。これまで地域密着のローカル・パーティに所属し、子育て支援や福祉政策を進めてきた彼女は、今回立憲民主党から立候補する決意を固めた。「この選挙はわたしにとっても、立憲民主党にとっても大きな挑戦だと思う」と語る彼女に、立川の現状と未来の課題について聞いた。
*このインタビュー記事は、過去に掲載したものを再編集しアップしています。
政治にまったく関心のなかった若者が政治家へ
──まずは自己紹介をお願いします。
1958年、東京都の府中市生まれです。わたしの子ども時代で府中といえば、有名ないわゆる「3億円事件」ですね。子どもの頃はあの事件と関係のある原っぱで遊んだりしていました。そのまま中高は公立学校で過ごし、短大で英文学を学びました。就職した頃は1980年代の初頭でしたから、とくに就職で悩むということもなく、学生の頃にアルバイトでお世話になっていた地元企業、クラリオンに入社しました。
──どんな若者でしたか?
当時の典型的な若者だったと思います。とくに社会や政治に関心があるというわけではなく。そもそも男女雇用機会均等法の施行前で、女性のキャリアの道はとても難しかったんです。だから専門職に就くなんてこと自体考えなかった。女性はたいてい一般職で、結婚と同時に寿退職…それが当たり前な時代で、今になって考えると、女性の生き方の幅がすごく狭い時代でした。わたしは現在もう成人した娘と息子がいますが、やっぱり今の若い世代の置かれている状況というのは、わたしが若い頃とは違うんだと実感します。男女共同参画がいわれながらも女性はまだまだキャリアを築きにくいですし、若い人たちの働く環境そのものも、わたしの頃よりずっと厳しいと感じます。
──社会的なことに関心を持ったのは、地域の食の安全について考えたことがきっかけだと聞いています。
わたしはちょうど1987年の2月に娘を出産しました。その前年にチェルノブイリの事故があり、その直後に妊娠がわかったんです。大変なことが起きたなと思いました。生活協同組合という、消費者と生産者を結ぶ運動にその頃に出会って。その時に自分たちの生活の根っこの部分、住むとか食べるとか、そういう根本的な部分に関して、単なる消費者であることを超えて、生産の現場まで関心を払うようになりました。自分が母親になるという事実と、そうした国内外の事情が重なって、生活することへの意識そのものが少しずつ変わっていった。あれが転機だったと思います。
──立川に住むようになったきっかけは?
やはり子どもの頃から東京でも郊外のエリアの自然が豊かな場所で育ちましたから、家族を持ち、子育ての環境を選ぶときも、立川の緑の多い環境に惹かれました。引っ越してみて驚いたのが、行政区分によって給食や食育のあり方が違うこと。たとえば、娘の通う小学校は共同の給食センターで調理したものが配食されていたし、中学校ではお弁当でした。でも、立川市の周囲の自治体では自校調理といって、各自の学校で調理して、子どもたちが給食の準備の匂いをかぐことができるところもあったんです。
もちろん給食のことだけじゃなく、教育のあり方や公園の使い勝手、とにかくわたしたちの生活が地域の政治と密接に結びついているんだ、ということを痛感しました。その当時、立川にはローカル・パーティは存在しなかったので、集まった人たちと手探りで活動を始めました。その後、2006年に初当選し、市議会議員としての活動をスタートさせました。
発達障がいに関する事件に衝撃を受けて
──議員活動をしていてもっとも印象的だったことはなんですか?
様々なことを経験しましたが、一番印象に残っているのは、2011年に立川で起きたある事件です。発達障がいの子どもさんを持つお母さんが、4歳のお子さんを手にかけてしまったんです。新聞などでも大きく報道されました。わたしは議員としても、子育てをしてきたひとりの母親としても、その事件に衝撃を受けて。裁判の傍聴にも通いました。そのお母さんは、二人目のお子さんが発達障がいの診断を受け、なかなか周囲にうまく馴染めない、そのことに一人でずっと悩んでいて。上のお子さんと同じ幼稚園に入れようとしたら、幼稚園側から「受け入れ態勢が整っていない」という理由で入園を拒否されたそうなんです。そのことをきっかけに精神的にバランスを崩していって。
わたし自身、議員としてそうした発達障がいの子どもを持つ家庭向けに、ネットワークをサポートしていました。後から聞いた話では、そのお母さんはそうした交流の場に訪れたこともあり、講師の方の講演を聞いた後、ひとりで泣き崩れていたそうです。わたしは様々な支援をしていたつもりだったんですが、その支援は少なくともそのお母さんには届かなかった。これは本当にショックでした。
──その後、稲橋さんはどういったアクションを起こしたんですか?
発達障がいや、いろんな多様性を持って生まれてくる子どもたちと、その家族の支援をより強化しようと、居場所づくりの支援策を提案しました。それはわたしにとっても、立川の行政にとっても、大きな転機だったと思います。同じことを繰り返してはならない、という気持ちで、立川市として「子ども未来センター」を設立し、その総合相談窓口で、いろんな子育ての悩みを一元化して引き受けることのできる体制を整えました。たとえば、それまでの相談窓口は縦割りで、就学前と就学後で窓口が違い、引き継ぎもうまくできてなかった。でも相談が必要な保護者の方って、就学前から就学後の相談を頻繁にしにきたりするんです。そうした市民のニーズにより寄り添った政策を推進しました。
──一方で、子どもの発達障がいの原因が親の育て方にあると考え、家庭教育に責任を求める動きもあります。
わたしはもともと、子どもの権利をベースにして子育て支援の問題を考えていましたから、一貫して育児や教育の責任は一義的には社会にあるという主張をしてきたんです。でも、それまでは議会でそうした質問をしている時に、「親の育てかたの問題だろ!」「権利と義務はセットなんだぞ!」なんて野次があがることもありました。でも、やはり発達障がいの子どもの認知件数というのはどんどん増えてきていましたから、その事件を契機に議会の中でも変化が起き、立川は子どものケアに関しては一歩踏み込むことになりました。当時、市長がかなり危機感を持って提案を受け止めてくれて、早期にそうした施策が実行できました。わたしは市長に対しては是々非々の立場で、その点は高く評価しています。
転機を迎える立川の課題
──立川は現状どういった状況にあるのか教えてください。
各地の自治体は人口減少にぶつかっていますが、立川ではむしろ人口は18万人を超えて、今も少しずつ増えています。行政も市民も元気ですし、企業の事業所などもあり、まちづくりは一定の成果を出していると思います。立川は都心へのアクセスもよく、緑も多くて子育てもしやすい。駅から離れたエリアの農地が、相続にあたって宅地に変わっていく現象も起きてます。だから若い夫婦の方々がマイホームを買ったりして流入してきているんですね。子どもが増えるのはいいことですが、受け入れ側の体制を整備しなければいけません。
──立川では待機児童の問題はどうでしょうか?
待機児童は今年になって改善していますが、いまも30人ほどの待機児童が発生しています。まずは量の確保も大事ですが、とくに0歳から2歳の幼児保育は、質の確保が命の問題に直結します。保育を行う現場の人たちの待遇をきちんと確保すれば、それは信頼につながります。だから地域の認可保育園と連携しつつ、子どもたちや保護者だけでなく、働く側のスタッフも孤立しないようにと気をつけながら政策を進めています。
サービスを受ける側も働く側も、なにかあったら相談できる雰囲気を作っていかなければいけない。地域で生きる市民一人ひとりが健全な信頼関係を築けるように、うまく制度設計をするのが、行政や議会の仕事です。これはわたし一人の力では限界がありますから、いまも行政側の女性課長の方とも協力して進めています。
──高齢化の問題についてはどう考えていますか?
日本は7年後に超高齢化社会を迎えるんです。社会全体でいっても労働人口が減りますし、立川でいえば「独居老人」の問題が気になります。立川に流入してきている人口を分析すると、子育て世代だけでなく、中高年の層も多く移住してきて、駅前のタワーマンションや周辺に住んでいます。実際、わたしも顔見知りの市民の方から相談されたことがあります。その方は年配のご婦人の方なんですが、「夫が病院に行きたがらなくて寝たきりだ」と。わたしは「介護保険を申請して在宅介護のサポートを受ければいいじゃないですか」と答えたんですが、お相手の方は「それなんですか?」って。往診しているお医者さんも、おそらくは事情がわからずに、そうしたアドバイスをしてなかったそうなんです。その時はわたしがいろんな制度を紹介して、なんとか問題は解決したんですが、やはりサービスを提供するだけじゃなく、地域の家庭ひとつひとつに届くようにしていかなければと痛感しました。
──ご自身でもヘルパーの資格を持たれていると聞きました。
自分のヘルパーとしての経験から言っても、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)というのを中心に考えていきたい。たとえば、終末医療に関しては、在宅で暮らしたいという人が6、7割いても、実際にそうしたケアを受けられるのは2、3割です。以前、広島県の尾道市に視察に行ってびっくりしたんです。尾道市は財政的に余裕がないからということで、まずできるだけ寝たきりや引きこもりにならないように、地域で声をかけあうコミュニティをつくっている。さらに、在宅でケアを受けている人が、短期間だけ入院することのできる施設があったり、訪問介護も充実している。介護と医療のあいだをフラットにして、地域社会全体で高齢化の問題に取り組んでいました。立川は現在は財政的には余裕がありますが、それにあぐらをかくのではなく、ターミナル・ケアについては、全国の先進的な試みに学ばなければいけないと思いました。
──他に現在の立川で気になる課題はありますか?
先ほど言ったように、立川は発展中です。でも、ハード面での発展だけでは、子どもたちのケアや高齢化への対応などには不安が残ります。たとえば象徴的なのは、いま駅前の歩行者用のデッキをさらに延伸するという計画があるんです。確かにあのデッキは便利です。車も通りませんし、バリアフリーになっていて、多摩地域の足であるモノレールの利用客を受け入れるという点では、非常に重要な役目を果たしている。しかし、そのことと、あの駅前のデッキをどこまで伸ばすのか、ということは別問題です。駅前の施設ばかりが発展しても、駅から離れたエリアは置き去りにされてしまいます。
──そうした問題にどう対処したいですか?
ハコモノをつくれば維持管理費だってかかりますから、じゃあ10年後、20年後の立川を考えた時に、子育て支援や介護の社会化、待機児童、学童保育、高齢化への取り組み…というソフト面へアプローチする政策と比べて、どのくらいの優先度か、市民と一緒に考えたいんです。再開発に関しては、頭からすべてに反対するわけではないですが、とにかく財政状況や税金の使われ方を情報公開して、市民からの意見も反映すべきです。
なぜ立憲民主党か―「これはわたしが12年間取り組んできたことだって感じた」
──稲橋さんがこれまで所属されてきたローカル・パーティでは、議員活動は最大でも3期12年までというルールがあります。今回、立憲民主党という新しい政党から立候補することに決めた理由を教えてください。
そうですね。議員はあくまでも市民の代弁者ということで、3期までという規約があり、わたしも本当ならば今年で引退するはずでした。しかし、これまで地域に根ざしてきたローカル・パーティのあり方も、過渡期にあるんじゃないか、と考えました。市町村区議会という一番小さな政治の現場で汗をかいてきた自負はありますが、たとえば原発の問題などを考えると、やはり今後は国政政党とどう連携していくのかを模索する時期に来ているんじゃないか、と。だから、これまでお世話になっていた地域政党の議席は新たな候補の方にローテーションし、立憲民主党という新しいフィールドで挑戦しよう、ということになりました。わたし自身、この立川という場所でまだまだやるべき仕事があるなと感じていたのもあります。今回の選挙は、稲橋ゆみ子という一人の政治家としての再出発という気持ちです。
──現在の日本は男女間格差を示すジェンダーギャップ指数で非常に低い順位にあります。とくに政治の世界での女性議員の少なさについてはどう考えていますか?
議会で活動してみて感じるのは、たとえ女性議員であっても、その人がきちんと生活の現場に目を向ける政治家であるとは限らない、ということです。なぜ男女比を改善しなければならないか、その根本に立ち返るなら、やはり男性中心の政治がくみ取れなかった声を拾うことに意味があるはずなんです。若い人にも女性にも、既存の価値観にとらわれない、新しい感性を持った人たちに、どんどん政治の分野に飛び込んできてほしいと思います。
──立憲民主党についてはどう考えていますか?
去年の総選挙で、ローカルパーティの先輩である、大河原雅子さんが立憲民主党から出馬して当選しました。原発ゼロについても、それを大きく前に進めてくれる期待感がある。今回の選挙では、ローカル・パーティと国政政党が政策協定を結んだうえで、立川という地域で、ボトムアップ型の政治家を増やすために、いわば実験的な試みをしようとしている。これはわたしにとってだけでなく、立憲民主党にとっても大きな挑戦だと思います。立川独自の政治文化の確立に向けて、わたしも、一人の政治家として、力になりたいと考えています。
──立憲民主党はこの春、パートナーズ制度を開始しましたが、それについては?
パートナーズ制度のコンセプトを勉強してみて、これはわたしが12年間やってきたことだ!って感じました。政策をつくる時に、現場のニーズをきちんと把握して、様々な声を持ちよって草の根から作り上げる。議員におまかせにするんじゃなくて、市民が主体的に議員を巻き込んでいくような、そういうパワーは、立川での議員生活でずっと感じてきました。政治家の役割って、まず声を聞くことなんです。だって地域に必要なことっていうのは、誰よりも、その地域に暮らす一人一人が知っている。その声をすぐ隣で聞いて、日々の生活に忙しい市民のかわりに、その代表である政治家が実現するんです。立憲民主党という新しいチャレンジの場で、わたしのこれまでの経験をぜひ活かしていきたいです。
稲橋ゆみ子 YUMIKO INAHASHI
1958年東京都府中市生まれ。1980年駒沢短期大学英文科卒業後、クラリオン入社。結婚出産を機に立川へ。地元で立川生活者ネットワークの成立に携わる。2006年立川市議会選挙で初当選後、3期12年市議会議員をつとめ、子育て支援や福祉政策に関わる。介護ヘルパー2級。家族は夫と二人の子ども。