立憲民主党のつながる本部(本部長・枝野幸男代表)と憲法調査会(会長・山花郁夫衆院議員)は20日、「表現の自由と萎縮を考える―公的助成とアート作品―」と題したパネルディスカッションを憲政記念館で開催し、パートナーズを中心に自治体議員、芸術関係者など100名が参加しました。

 パネルディスカッションに先立ち、「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の映像作品「遠近を抱えてPartII」を上映。この作品は、昭和天皇の肖像を焼いたとして抗議されたものです。上映前には映像の監督である大浦信行さんは、「天皇を批判するために燃やすのだとしたら、そんな幼稚なものは表現ではありません」と語り、作品の背景について解説をしました。

 その後、あいさつに立った枝野幸男代表は、憲法は権力を制約するためのルールであること、権力が直接的に表現行為などを検閲することは許されないのはもちろん、権力のさまざまな振る舞いが社会に萎縮的効果を与えることを縛っておかないと表現行為の自由は確保されないと指摘。その象徴的な状況があいちトリエンナーレを巡って生じてきたと語り、現場からの声を踏まえながら、表現の自由に対する本質的な問題や重要性を共有し、それがしっかりと担保される社会・世の中を作っていくために頑張っていくと話しました。

 パネルディスカッションで司会進行を務めた山花郁夫憲法調査会長は冒頭、「『人権を保障する』とは具体的にどういうことか。物理的にその人を大事にしてあげるということではないはずです。その人の『人格を尊重する』と言い換えることできるかもしれません。その人の人格はどうやって形成されてきたか。いろいろな考え方に接し、また教育もそうでしょうし、その中の一つが芸術に触れ合うことではないか。そういった意味においても、表現の自由は非常に重要なものだと位置づけられている」と語り、こうした認識を深めていきたいと開催の意図を語りました。

 パネルディスカッションではパネリストの6名から表現の自由と萎縮についてそれぞれの立場から話があり、その後、話の中で出てきた特徴的な話題についてさらに議論を深めていきました。

 まず、ジャーナリストで「あいちトリエンナーレ2019」芸術監督の津田大介さんから、あいちトリエンナーレの概要、その中の企画展「表現の不自由展・その後」の中止騒動の経緯、文化庁の助成金不交付について話がありました。その中で、「(動員数としては)東京や大阪でないところで、ビッグネームもいない展覧会としては、非常に大きな結果を残せた」と語る一方、「マスコミの報道自体が不自由展に集中してしまったため、なかなか内容面でそれ以外の企画に光が当たりづらかったことが残念だった」と話しました。

 ラッパーのダースレイダーさんは、「何かを見て、『これはいいものだ、私にとってこれは心地がいいものだ』、あるは『これは嫌だ、何か僕はこれを見て嫌な気持ちになる』という体験をする。その体験をさせてくれることがそもそもアートの目的」と語り、そうしたアートに触れる機会を提供するのが社会を運営することを任された行政の役割であり「どんな感情を抱くか、それに触れることにより、どういう思いをするかというところまでは立ち入らないのが、いいバランスだ」との考えを示しました。

 また、不交付決定については、「まるで人質をとったかの如く、『こっちは金を持ってるんだから言うことを聞かなかったら出さないぞ』というスタンスは、見方によっては卑怯者がやること」と話し、議事録もなく誰が決めたのかプロセスの可視化ができない決定には何の正当性もないと指摘しました。

 さらに、同じテーブルに座っていないと議論はできないが、今回の一連の議論はそうしたテーブル自体が存在しないのではないか。同じ前提を共有しているのか、その前提が何か、そもそもそうした前提は存在するのかいうところまで戻らないと今の日本社会では先に進めないと指摘。表現の自由の議論と同様に憲法論議でも、「憲法がなんだか分かっていない人たちを集めて改憲というものを話す。こういったことがそもそも成立するのか。前提の確認というものに立ち戻り、僕らがどんなテーブルに座っているのか、今回をきっかけにもう少し考えたほうが良い」と訴えました。

 また「教育」という観点から、民主主義は熟議をし少数派の意見も取り入れつつ一つの決定をみんなで共有していくものだが、日本では小中高校、大学でも学んではいないと指摘。こうしたプロセスで世論が形成されていくのがヨーロッパ的であるなら、日本の世論は基本的には感情、快・不快、その程度のことで流されてしまう非常に脆弱な土台の上に乗っかっていると話し、その土台は教育で作らざるを得ず、小学校くらいからやっていかないといけないと語りました。

 あいちトリエンナーレに参加したアートユニット・キュンチョメのホンマエリさんは、アーティスト自身が萎縮しないといったり補助金を受けないといっても関係なく「表現の萎縮は確実に起きる」と語りました。それは、誰をディレクターにして、どんなアーティストを呼ぶのかという選定の時点、密室の会議の段階で行われ、ディレクターをやりたいと思っている人も、アーティストも、もちろん観客の手にも届かないところで萎縮が進んでしまうと危機感を募らせました。

 そして近い将来、才能のある作家はみんな海外に出ていくことになり、そうした作品を見る機会がなくなると語り、日本のそうした状況を知ることで海外のアーティストたちの日本への出品もされなくなると指摘。アジアのアーティストの中には、自国で検閲や表現規制を受けている人もいて、肌身で分かっているからこそ、日本の現状に対して注意喚起してくれるアーティストもいると話しました。

 また「芸術の本質」について、「『是か非か』ではないし、『賛否』でもない。『では、何か』というのを理解するのは実はすごく大変で、大変なだけではなく時間がいる」「美術館というのはまさにそのための場所。考える時間を延ばすための神殿とも言い換えられる」と話し、「今の社会生活だと瞬時に反射神経で2、3秒で判断して『これは是』『これは非』という繰り返しに私たちは慣れてしまっている。だからその真逆の場所を作り、是か非かではなく、ちょっと座って熟考する場所なんだという意識を持つことが何よりも重要」だと指摘しました。

 同じくキュンチョメのナブチさんは海外の検閲事情について、日本で想像する検閲と違い生死の問題に直結すると語り、アジアのある国では、警察がいきなりやってきてアーティストに発砲するということがあると紹介。さらにそうした状況が続くと、国家権力がそうしているのならと、今度は住民がアーティストを襲うようになったという話をしました。

 そして、「真っ先に殺されるのは、やっぱりジャーナリストとアーティスト。つまり、前にいる人たちが一番に殺される」と語り、表現の自由は、発表する場や発表を取り下げるといった国による制限というだけではなく、もっと大きな問題だと訴えました。

 武蔵野美術大学教授の志田陽子さんは、法学者の立場から社会の萎縮が起きると社会文化のあり方が下がっていくと語り、議論になることをあえて取り上げ議論できる文化が民主主義を支えているとして、芸術家だけの問題として切り離すのではなく、民主的な社会文化そのものに影響する問題なのだという視野で萎縮をどう止めるのかを議論する必要があると指摘しました。

 また萎縮しないための法的なものとして、泉佐野市民会館事件(市民会館で「関西新空港反対全国総決起集会」を開催しようとしたところ、市長が会館使用申請に対し不許可としたことから、使用不許可処分の取消しと損害賠償を請求したもの)を取り上げ、結論自体は嫌がらせによる中止もやむを得なかったという判断になってしまった事例だが、「具体的に、しかも市民の側に危険があると予想できる状態にあるとき、はじめて中止にできるということが裁判では明らかにされている。それを公務員の皆さんが参照してくれればかなりの部分、萎縮は防げるはず」と説明しました。

 さらに文化芸術基本法の前文に「文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重すること」と謳っていることを挙げ、今回文化庁の中で文化芸術基本法が話題になっていないのは「あえて見ていないのか、言ってしまうとまずいと思って言及しないのだろうか、不思議でならない」と語った上で、「理念法だと言われても、その理念を見なければいけない。そしてこの法律がもっと重視されてくれば、もう少し実効性のある法律としていろいろな議論の根拠にできる」と話ました。

 あいちトリエンナーレの補助金採択の際に審査委員を務めており、その後不交付の決定で「後から不交付とするのでは審査の意味がない」として審査委員を辞任した鳥取大学特命教授の野田邦弘さんは、今回の不交付決定の経緯とそのポイントを説明。実現可能性や事業の継続性に疑念があるとして不交付が決定されたが、再開したことでその指摘が解消されたということも成り立つと語りました。また公的助成の意義が理解されていないとの懸念を示した上で、今回の決定について「市場性がないもので、かつ内容が良いと専門家が認めたものを応援するわけですから、その専門家を否定し事務方の判断だけでやってしまうというのは非常に危険」と指摘。最後に「このままだと日本が2流国3流国になってしまう。そうならないように頑張っていかないといけない」と語りました。

 会場からの質疑応答の前に、今回の議論を聞いていた大浦さんは、「一連の事件で作家として改めて思ったことは、自分の主題はどんな事があっても変えないということを改めて強く意識した」「作家や表現というのは本来的にはアナーキーなもの。だからこそ表現する意味、あるいは作家自身がこの現実の社会によってたつ根拠もそこにある」「逆説的に言えば、作家にとっては一つの収穫でもあった」と語りました。

 また、あいちトリエンナーレに参加した現代美術作家の小泉明郎さんは、「萎縮が既に4、5年前からあり、われわれが作る表現の場がどんどん絞られてきているという現実があり、その危機感から津田さんがこのような試みをしたと思う。展覧会でいろいろありましたが、今こういう場が持たれて、芸術のことが話され、表現の自由のことが議論されているということ自体がすごく大きな進歩だ」と語りました。

 さらに、河村名古屋市長と不自由展について議論する場があり、その中で河村市長は「多様性」と「教育(芸術には教育的な価値・役割がある)」という2つの言葉を嫌っていたと話し、「多様性や教育というところに国民に分かる理論を作っていくのが一つのキーになる」と語りました。

 この話を受け津田さんは、「現代美術ってすごい力がある」「社会に影響を与えうるものが、政治に発見され、政治家に発見されたからこそ怖がられて、こういう反応が今回起きている」と指摘。だからこそ美術の持つ力を削がないようなことが求められていると訴えました。

 質疑応答では、次のようなやりとりがありました(主な質問とその要旨)。

Q:今回の騒動は津田さんが仕掛けたものであり、狙い通りだったのでは

(津田さん)
 本音を言えば、もちろん狙い通りではないです。なぜかと言えば、この企画を75日間ちゃんとお客さんに正常に運営して観てもらって、「なんだ全然いままで萎縮しちゃってたけど、できるじゃん」っていう実例を僕は作りたかった。だからその意味ではまったく狙ったことではなくて、展示が75日間できなかったことは参加作家の方に本当に申し訳ないし、観客にも申し訳無いと思ってますし、職員にもすごく大きな負担をかけてしまったので、やはりその点の責任は僕は免れないと思っています。だからこそとにかく再開することが重要であると思っていた。

Q:従軍慰安婦像(平和の少女像)とナショナリズムとの関係、ナショナリズムをどう理解しているのか

(津田さん)
 戦時性暴力を行っていた日本軍に対しての批判の意図もあるのですが、同時にあの作家は韓国がベトナム戦争のときに行った性暴力に対しての批判の意味を込めた像(ベトナム・ピエタ)というものを作っていて、ある意味日本批判でもあるけれども、もう少し大きな戦時性暴力に対しての訴えかけをするというような少女像、作品であるということが一つ。
 もう一つナショナリズムの話でいえば、韓国の日本大使館前に置かれ、それがある意味で象徴性を帯び、政治プロパガンダと言われている理由にはなるし、ナショナリズムの文脈で韓国人の中でも捉えられることは当然のことだと思っている。
 僕も観に行きました。あの平和の少女像を大使館前に置かれているのを観たときにやっぱりすごく複雑な気持ちになりました。それはあまりにも置かれている場所が生々しすぎるし、強すぎる。意味性が強すぎると思った。同時に、だからこそ、これはそこの場所から、意味性がすごく強くある場所から切り離して、日本の美術館に持ってきて、あくまで美術作品として作家のメッセージをきちんと鑑賞することが重要ではないかと思った。
 美術館の中であの少女像の作品を観たときに、韓国の大使館前で観るのとはまったく違う、造作は細かくこうなっているんだなとか、かなりいろいろ考えられた作品だなっていうのが僕自身も感じて、持ってきてよかったと思いました。
 同時にいろいろな説明とかも書いてあって、実際にお客さんの反応からもそうでした。どんなものか、すごく怖かったり、楽しみにして観に来たけれども、いい意味で拍子抜けしたという方がすごく多くて、そういう意味性が強いような場所、プロパガンダと言われる場所から美術館に持ってきて議論のきっかけにするということ、それが本当はやりたかったことですし、一部にはなりますけれども、そういうことが実際観た人には伝わっていることはすごく意味があったのではないかと思っています。

Q:表現の自由を当事者として、一般の人たちが考えるための土壌をどう作っていくか

(ナブチさん)
 最初からあいちトリエンナーレの話はアートの話ではなかったと思った。
 僕らがあいちトリエンナーレで向き合ってきた人たちは、アートなんて普段からほどんど観ない人たちなんですね。Jアートコールセンター(アーティストによって運営されるコールセンターであり、パブリック/公共サービスを問い直し、電話対応の法的/制度的な再設定を試みるプロジェクト)でずっとクレームの電話を受け続けていたわけなんですが、結構な数のクレームの電話を取ったんですね。100件くらいは取ったと思います。
 電話をかけて来た人たちっていうのはほとんどが老人なんです。中年から老人で、それで思ったのが、これ老人介護だと思ったんですね。高齢化社会とか老人の孤独化みたいなものが表現の自由の問題と一致しちゃって起きたのがあいちトリエンナーレだと、そういう見方もできるんじゃないかと思って。彼らは部屋に一人で居るわけですよね、社会との接点探している。そういう感じがしたんですよね。本人たちは電凸(「電話突撃」が語源)という自覚がまったくなく、俺が一言いってやるみたいな結構簡単な感じで電凸してくるわけです。
 面白かったのは電話を受けていたときに、「これ電凸じゃないから」って言って電凸してくる人もいた。やっぱり寂しいのかなって思ったんですよね。そこにはこの社会や日本の抱えている暗闇みたいなものがちょっと見えて。それがもし、表現の自由の萎縮、もしくは電凸みたいなものに繋がっているとするなら、家庭とかでけっこう解決できる問題でもあるんじゃないかなと思ったんです。つまり自分の親が何しているのかとか、ネトウヨ化していないかをチェックするとか、あるいは自分の兄弟がとか、そういう家庭の一人ひとりのケアみたいなものが日本を変えていく可能性があると。
 人は放っておくとたぶん何かしらの連帯を求めていく、その一番分かりやすいのが「国家」なんですよね。国家であり宗教になると、どうしても天皇陛下の影がちらついてきたりする。そこから歴史修正のようなものに走っていくわけで、それを一人ひとりが未然に防ぐことは家庭で可能なんじゃないかなとちょっと思いました。