立憲民主党は27日憲法調査会を開き、志田陽子武蔵野美術大学教授から「芸術法制の理念と枠組み」をテーマに話を聞きました。今回は「あいちトリエンナーレ2019」問題に焦点を絞り、「今後の芸術祭と市民の表現活動を萎縮させないために、文化芸術政策・文化芸術法制はどうあるべきか」との問題認識のもと、基本的な理念と枠組みを確認しました。

 志田教授は、日頃は憲法や芸術家が知っておく必要がある法律などについて学生に講義するとともに、学内にある美術館の運営にあたってコンプライアンス上どうなのかという相談を職員から受けていると自己紹介。「芸術家が芸術の枠組みのなかで、美術館のなかでさまざまに自由な活動をしたいというときに、その内容には関与せず、社会との関係のなかでコンプライアンスを考えてきた立場から、法律家としてと同時に、そうした日頃の仕事から考えていくことも織り交ぜながらお話したい」とあいさつしました。

 志田教授は、(1)憲法21条「表現の自由」と「文化芸術支援」(2)公的助成における「芸術の自由」(3)中止問題から社会的萎縮にいたる背景――等を中心に講演。「あいちトリエンナーレ」問題に関しては、一般市民の「表現の自由」と、文化芸術支援の枠組みのなかで今回問題となった「表現の自由」は制度的には枠組みが一段階違うことを視野に入れておく必要があると指摘。企画展での展示に対し脅迫的な抗議が来たことで中止となったことには、「公の行事が脅迫を受けたことに対し、危険の除去と安全確認を警察と連携して全力でやるのは当然のこと。表現の自由や芸術の自由の問題と言わなくても当然のことだ」との認識を示し、今回『表現の自由として逸脱している』という発言が公人から出てきたことによって「一般社会の表現の自由としてもやってはいけない表現なのか」と一般の市民の方がざわつき、萎縮が生じる危険が起きてきてしまったとして、問題の整理が必要だと述べました。

 憲法21条で保障されている、一般の「表現の自由」の一番重要な骨組みは、「公権力(国家・自治体など)からの自由」「公権力の関与をお断わり」と言える権利であり、公権力に対し規制しているのが「検閲」だと説明。その上で、「あいちトリエンナーレのような芸術祭の場合には、国家による支援を受けた芸術表現であり国家が関与しているもの。ここで、『これは検閲だから公権力の関与お断り』と言ってしまうと、文化芸術支援の足場が取り払われてしまう危険があるのではないかと危惧している。『検閲』というよりは別の言葉、または『文化芸術基本上読み込まれるべき検閲禁止ルールに反している』という言い方ならできるのではないかと考えている」と述べました。

 公的助成における「芸術の自由」をめぐっては、「表現の自由に反する介入があった」ことと、「公金の使用には不適切な表現があったから中止、補助金を交付しなくてもいい」という議論がぶつかりあったように見えると解説。文化芸術助成事業を行うときの根拠法となる文化芸術基本法(2017年)に触れ、その前文には法制度の役割、課題として「文化芸術の基盤の整備及び環境の形成を担う」、支援をする際の理念と心構えとしては、「文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重しつつ、文化芸術を国民の身近なものと(していくこと)」あると強調しました。

 その上で、芸術の自由、自主性には、個々の表現活動者と、芸術監督や審査員などの芸術系専門家、「公」の3つの層があり、芸術的内容に関する審査や展示方法の選択については、公権力担当者ではなく、芸術系専門家が関与する「自立」を尊重することが「アームズ・レングスの原則」と重なる「芸術の自由」であり、「公」はこの信頼関係を打ち破る内容介入をしてはならないと主張。「あいちトリエンナーレ」への補助金全額不交付を決めた問題については、「些細な(申請時の手続き上の)不備を理由にして全体を中止に追い込む可能性のある『補助金の不交付』という手段を取るのは、表現の自由に求められる原則からは行き過ぎであった。バランスの悪い、強すぎる手段をとっていると言える」と結論づけました。